第37話 梅雨の総武線、レースの貴婦人、再び
梅雨に、入った。
毎日、雨だった。みゆきのいちばん嫌いな六月が、じっとりと東京を包んでいる。あじさいだけが、うれしそうに青い。
みゆきはその夜も、濡れて帰った。風呂には三回に一回しか入らないくせに、雨にはしっかり濡れる。折りたたみ傘は、いつも鞄の底で忘れられている。びしょ濡れの回遊魚は、湿った車内で、濡れた傘の匂いに包まれていた。
そんな、うんざりする梅雨の車内に、一人だけ、雨を感じさせない人がいた。
◇
白いレースの装い。涼しげで、上品で、たぶん、それなりに値の張るもの。肩には、見覚えのある小ぶりの鞄。馬車の刻印。エルメスだ。
あの人だった。
いつだったか池袋で、鞄のチャックにレースを嚙まれて立ち往生していた、あの貴婦人。あの日、みゆきが糸を一本ずつ救出した、あの人だ。こんな雨の日でも、この人のまわりだけは、湿気が遠慮しているように見えた。金持ちは、雨の降られ方まで上品だった。
みゆきは、なんとなくうれしくなった。元気そうで、なによりだ。
◇
だが、その貴婦人が、また困っていた。
濡れた傘を、畳もうとしていた。上品な、細い傘。そのとき、肩にかけたレースのショールのはしが、傘の濡れた骨に、からまったのだ。
雨に濡れたレースは、傘の金具にぴったりとへばりついて、抜けなかった。貴婦人はそっと引いてみるが、繊細なレースは、今にも裂けそうだ。彼女は、抜くに抜けず、上品に途方に暮れていた。
また、レースが、何かに嚙まれている。
みゆきは、ふっと笑いそうになった。この人はどうやら、レースをいろいろなものに嚙まれる運命に、あるらしい。
◇
みゆきは近づいて、声をかけた。
「あの。それ、無理に引くと、裂けますよ。──ちょっと、いいですか」
貴婦人はみゆきを見て、目を丸くした。そして、ふわりと微笑んだ。
「あら。……あなた、いつぞやの」
覚えて、いた。あの池袋のレースの人だと、みゆきのことを、ちゃんと覚えていた。住む世界がちがうと勝手に思っていた相手が、自分を覚えていてくれた。みゆきは少しだけ、どきりとした。
「お願いしてもいい、かしら。あなたの手なら、安心だわ」
「……はい。得意なんです。こういう、細かいの」
みゆきは、濡れたレースを、傘の骨から一本ずつ外していった。歯石をスケーラーで取るときと、同じ手つき。毎日、人の口の中でミリ単位の仕事をしている手だ。濡れてからまったレースくらい、造作もなかった。
ぷつ、とも言わせず、レースは無傷で外れた。
◇
「まあ。すごいわ。ありがとう」
貴婦人はレースをそっと直しながら、何度も礼を言った。それから、少しいたずらっぽく、こう付け加えた。
「わたし、あなたに、二度もレースを助けていただいたのね。三度目は、ないといいのだけれど」
みゆきは、笑った。貴婦人も、笑った。雨の総武線の湿った車内で、レースの世界の人と、とんかつの世界の人が、ちょっとだけ、同じ温度で笑った。
みゆきは思う。あたしとこの人は、たぶん、住む世界がちがう。レースと、ロース。響きはこんなに近いのに、暮らしは遠い。あの人は雨に濡れない世界にいて、あたしは傘を忘れてびしょ濡れになる世界にいる。
でも。二度、同じレースを助けたなら。その遠い世界にも、細い糸くらいは、渡せるのかもしれない。歯石を取るこの手が、ときどき、そういう橋をかける。悪くない、手だ。
次の駅で、貴婦人はレースを揺らして、雨のホームへ降りていった。あいかわらず、名前は聞かなかった。だが、たぶん、また会う。そして、たぶん、また何かに、レースを嚙まれている。
◇
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。
「レースの貴婦人、梅雨に再会。今度は濡れたショールを傘の骨に嚙まれ、立ち往生。二度目のレース救出、無傷にて成功。先方、当方を記憶しており『三度目はないといいのだけれど』と上品なジョーク。金持ちは、困り方も礼も、やっぱり上品。評価:★★★★☆。レースとロースに、細い糸一本」
保存。
窓の外を、雨にけぶる東京が流れていく。みゆきの濡れた肩は、まだ乾いていない。だが、なんだか少しだけ、あたたかい気分だった。びしょ濡れの回遊魚にも、梅雨の車内で、いいことは起こる。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、二度目のレース救出に成功した、濡れねずみ。
今日も、終電の一本手前。
みゆきである。
(第37話 了)
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次回 第38話「ヨドバシ、家電めぐりの休日」




