第38話 ヨドバシ、家電めぐりの休日
ことのはじまりは、一台のアイパッドだった。
久しぶりの休日の朝。岡崎は布団に寝そべって、みゆきのアイパッドでだらだらとユーチューブを見ていた。その画面が、ふいに固まる。数秒うんともすんとも言わず、それきり、ぷつん、と暗くなった。
「……みゆき。これ、逝ったかもしれん」岡崎はこわごわ、アイパッドを掲げた。「言っとくけど、俺はなんもしてないからな。見てただけだからな」
「あー、またか」みゆきは、たいして驚きもしない。歯ブラシをくわえたまま、もごもご答えた。「最近、しょっちゅう固まるのよ。充電も、すぐ切れるし。……もう寿命かもね」
「だいぶ古いのか」
「さあ。買ったの、いつだったかな。──買い替えどきかも」
「じゃ、明日あたり、ヨドバシでも行くか」
みゆきの、歯ブラシをくわえた顔が、ぱっと明るくなった。
◇
ここで、断っておかねばならない。
みゆきにとって、ヨドバシは、ただの家電量販店ではない。信仰の対象である。ビックでも、ヤマダでも、コジマでも、ケーズでもない。ヨドバシだ。「ヨドバシの店員さんは、神なの」。優しくて、丁寧で、押し売りをしない。事あるごとに、みゆきはそう岡崎に説いてきた。睡眠の話のすぐ次くらいに、ヨドバシの話をする女だった。
もともと、みゆきは家事をしない。だから、家事を肩代わりしてくれる家電を心から愛している。段ボールタワーの空き箱の大半も、その愛の残骸だ。ただ近ごろは忙しくて、店には行けない。もっぱら、ヨドバシオンラインで買う。だから、店員に直接会える休日は、みゆきには、ちょっとしたお参りだった。
◇
翌日、二人は、開店したばかりの池袋の新店へ向かった。
みゆきはまず、調理家電のコーナーへまっすぐ向かった。二年前、電子レンジを買ったときの店員さんに、挨拶をするためだ。相手は、覚えているような、いないような顔で、それでも愛想よく応じてくれた。みゆきは、それだけで満足そうだった。
あとは、あてもなくフロアを泳いだ。岡崎が、みゆきの部屋の十八インチしかない二十年前のテレビを「あれは、いいかげん、なんとかしろ」と言い出し、最新のテレビの前で足を止める。みゆきは、古びたイヤホンの棚に見入る。かと思えば、岡崎の趣味で、ゲームやオタクグッズの一角に、二人して吸い込まれる。
どちらも、目が子どものように輝いていた。気づけば、一時間。そして二人は、パソコンとタブレットのコーナーに、たどり着いた。
◇
ところで、みゆきは、岡崎のある弱点を知っている。
岡崎はじつのところ、ふだん家電屋には近寄らないようにしている。理由は単純だった。店員と話すと、必ず、何かを買ってしまうからだ。
この男は、とにかく人当たりがいい。誰とでもすぐ打ち解けるし、妙なところで相手に気を遣う。だから、店員が家電を勧めてくると、その店員をがっかりさせたくない一心で、一緒になってその家電を褒めはじめる。褒めているうちに、自分でも、いい商品に思えてくる。そして気づくと「これは買わないほうが損だ」と、店員と固く握手を交わしている。よくわからないものを、勢いで抱えて帰る。
要するに、チョロいのだ。
そのチョロい男が、いま、前から気になっていたらしいノートパソコンの前で、店員と、すっかり話しこんでいた。──いやな予感がした。
◇
みゆきがタブレットを見て戻ると、案の定、岡崎の顔は、完全に「買う人」の顔になっていた。
いまどきの、まともなノートパソコンは、軽く二十万を超えるらしい。だが、店員が勧めてきた一台は、オープン特価で、昨年末の新型が、あれこれ付いて十五万だという。「──いや、それ、安いな」。岡崎は、心底、感心していた。ここへ来るまで、買う気などみじんもなかった男が。
「どうしたの。買うの、それ」
声をかけると、岡崎は、少しだけ、うかがうような目をした。
「……おう。だめか?」
「ヨドバシの店員さんが、そう言うなら。いいんじゃない」と、みゆきは肩をすくめた。
◇
あとで、みゆきは、少しだけ責任を感じることになる。
じつはこのとき、岡崎の胸には、まだ引き返す道が残っていた。もしみゆきが少しでも渋い顔をしていたら、「いや、うちの彼女が厳しいもんで」とでも言って、その場をそっと収めるつもりだったのだ。彼女のせいにして、逃げる。いつもの手だった。
だが、目の前のみゆきには、止める気配が、まるでなかった。むしろ、どこか面白がってすらいた。
(──まあ、いいか。だいじょうぶ、だよな)
岡崎は、一度だけ自分に確かめて、腹をくくった。あとは、言われるまま、手続きの列へ。みゆきは、その待ち時間がもったいなくなって、また、ふらりと、タブレットを見に行った。
◇
一人、手続きを待つあいだに、岡崎は、じわじわと不安になってきた。
(──いや、本当にいいのか。十五万だぞ。休みにふらっと来て、勢いで買う値段じゃ、ないだろ。……やっちまった、かもしれん)
まさに、その後悔がしのび寄ってきたとき。さっきとは別の店員が、にこやかに近づいてきた。
「お客様、じつは今、新店オープンのキャンペーンをやっておりまして」──携帯電話と、ご自宅のワイファイの契約を、こちらにまとめて、新しいヨドバシのカードを作っていただけると、かなりお安くなるんです、と。
「……マジで?」
岡崎は、なんでもアマゾンで済ませる男だった。荷物が翌日、玄関に届く。それが買い物だと思っていた。店頭で値引きをされる体験など、生まれてこのかた、ほとんどなかった。
「それ、やると、いくらになるんですか」
「条件を満たしますと……こちらですね」
店員が、電卓を、すっと差し出した。その数字を見て、岡崎は絶句した。
八万。
「……半額、じゃないですか」
「ええ。せっかくの機会ですから。ぜひ、お得に連れて帰ってあげてください」
◇
「──ヨドバシ、神か」
岡崎は、その場で、宗旨替えを決めた。
みゆきにあれだけ説かれても、ぴんと来ていなかったヨドバシのありがたみ。それが、七万円の値引きという、この上なくわかりやすい形で、ついに岡崎の胸に降りてきた。携帯の手続き、カードの手続き、こまごました書類。結局そこから、さらに一時間以上かかったが、岡崎は終始、ほくほくしていた。
そこへ、どこかへ消えていたみゆきが、戻ってきた。その手には、なぜか、袋がぶら下がっている。
「あたしも、買っちゃった。アイパッド」
「お、いいじゃん。いくらだった?」
「んー、八万くらい」
岡崎の顔が、ぱっと輝いた。同志を見つけた、という顔だった。
「マジか。じゃあ、みゆきも、あれやったのか。俺なんて、七万も引いてもらったぞ。……いや、ほんと、ヨドバシは神だわ」
みゆきは、袋を軽く持ち上げて、あっさり言った。
「ううん。あたしは、定価。そのまんまの値段で、買った」
岡崎の、輝いた顔が、ゆっくりと止まった。
「……なんで?」
「だって、面倒くさいじゃない」みゆきは、心底、不思議そうだった。「アイパッド一枚買うのに、なんで、携帯の会社も、家のワイファイも、ぜんぶ変えなきゃいけないの」
◇
岡崎は、しばらく、言葉を失っていた。
人当たりがよくて流されやすいだけの、チョロい男が、あれよあれよと七万円の値引きを勝ち取った。その隣で、正真正銘のヨドバシ信者が、たった一つ「面倒くさい」という理由で、その値引きをまるごと蹴った。定価で、にこにこしている。
世の中の「お得」は、たいてい、面倒と抱き合わせでやってくる。みゆきは、いつだって、お得より先に、面倒のほうから逃げる女だった。眠りを愛し、手続きを憎む。それが、みゆきという生き物なのだ。
まあ、いい。定価のアイパッドも、七万引きのサーフェスも、電源を入れれば、ちゃんと動く。それで、じゅうぶんだった。
◇
みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。今夜は、車内遭遇録ではない。
「休日、池袋のヨドバシ新店へ。付き添いのはずの岡崎、持ち前のチョロさでサーフェスを購入。十五万が、携帯・ワイファイ・カードの契約変更で、まさかの八万に。七万引きに感激し、ヨドバシ教へ電撃入信。一方、当方は同額のアイパッドを、手続きが面倒という理由で、堂々の定価購入。信者が定価、素人が爆値引き。神は、手続きを厭わぬ者にこそ微笑むらしい。評価:★★★★☆」
保存。
帰り道、岡崎はまだ上機嫌だった。真新しいサーフェスの箱を、宝物のように抱えている。その箱もいずれ、みゆきの段ボールタワーの、いちばん上に加わるのだろう。睡眠教の教祖と、ヨドバシ教の新入り。二人の家電めぐりの休日は、そうして暮れていった。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、真の信者ゆえに、堂々と定価をつかまされた女。
今日は、終電に乗らない。
みゆきである。
(第38話 了)
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次回 第39話「梅雨明けの総武線、きゅうり結社の夏」




