第36話 牡蠣三昧の、代償
みゆきの、久しぶりの休日だった。
岡崎は、前の晩から泊まりに来ていた。せっかくの休みだ。みゆきはめずらしく、思い立った。今夜は、外に食べに行こう。
ふだん、二人の夕飯は地味だ。みゆきの帰りが遅いので、岡崎が勝手に何か作って待っているか、テイクアウトを頼むか。外食は、ほとんどしない。だからこそ、たまの外食は、ちょっとした贅沢だった。
「あたし、牡蠣が食べたい」とみゆきは言った。
「牡蠣か。いいな」と岡崎も乗った。
実はこの二人、そろって、大の牡蠣好きだった。食の好みが、わりと合う。それは、つかず離れず三年も、なんだかんだ続いている、数少ない理由のひとつかもしれなかった。
◇
二人は、池袋の駅ビルに入っているオイスターバーへ向かった。
そして、牡蠣を、心ゆくまで食べた。
生牡蠣。牡蠣フライ。焼きガキ。牡蠣のパスタ。しめには、牡蠣出汁のスープ。まさに、牡蠣三昧だった。つるり、と生牡蠣をすすっては、二人で同じ顔をして、うなずき合う。うまい。ほんとうに、うまい。
みゆきは、幸せだった。好きな相手と、好きなものを、腹いっぱい食べる。それだけのことが、こんなに満ち足りるとは。ふだん、電車と患者と変な人に追われている回遊魚には、それは、ずいぶんまっとうな、しあわせだった。
二人は、上機嫌で、みゆきのマンションへ帰った。
◇
もう、二十四時手前。
いい感じの夜だった。みゆきは、今日は機嫌がいい。岡崎もめずらしく、満足げに笑うみゆきを見て、うんうん、とうなずいていた。
風呂に入って、布団を並べて、寝そべる。今日の仕事の話。最近、週二で通っているジムの話。──シャワーは浴びずに帰るから、いつも汗くさいままなのだが、それは言わないでおいた。そして、今日のオイスターバーの話。
話しているうちに、二人は、自然といい雰囲気になっていった。
みゆきは、久しぶりに、しあわせを感じていた。
あとは、二人で一つになるだけだ。
◇
こんなしあわせくらい、たまにはいいだろう、とみゆきは思う。
岡崎は、こういうときに、ちゃんと隣にいる。一緒に好きなものを食べて、一緒に時間を過ごす。そういう相手として、まあ、合格点は出してやってもいい。別れたのか、別れてないのかは、相変わらず決めていないが。今夜くらいは。
みゆきは、そっと、岡崎との距離を詰めた。
だが。
その甘い雰囲気の中で。
一人、異変を感じている男が、いた。
◇
岡崎である。
今日のディナーは、うまかった。みゆきも上機嫌。風呂も一緒に入った。あとは、ゆっくり眠るだけ。その前に、隣でしあわせそうにしているみゆきを、じっくり抱く。完璧なプランだった。
そう、だった。
……腹が、おかしい。
いや。もっと、下だ。ケツの穴に、ただならぬ異変を感じる。岡崎は無意識のうちに、そこに力をこめていた。そして、異変に気づいてからは、全力で締めていた。額に、じっとりと、嫌な汗がにじむ。
牡蠣だ。あの生牡蠣だ。当たったのだ。よりによって、今、このタイミングで。
(──気を抜いたら、決壊する)
◇
みゆきは、岡崎の様子がおかしいことに、気づいた。
距離を詰めたのに、岡崎の体が、妙にこわばっている。汗をかいている。顔が、少し青い。目が、宙の一点を見つめて、微動だにしない。まるで、何かとてつもない精神の修行でも、しているような顔だった。
「……岡崎? どうしたの」
「……いや」と岡崎は、絞り出すような声で言った。「……ちょっと、待って。……動いたら、あかん」
あかん。
動揺の極みで、東京育ちの岡崎の関西弁が、暴発した。みゆきは、その一言で、なんとなく事態を悟りはじめた。この雰囲気ではない。この汗は、ときめきの汗ではない。
「……あんた、もしかして」
「牡蠣に……当たったかも、しれん……」
◇
次の瞬間。
岡崎は、ばね仕掛けのように、布団から跳ね起きた。そして、この世の終わりのような顔で、トイレへ猛ダッシュした。しあわせの甘い夜は、無残に爆散した。
みゆきは、一人、布団の上に取り残された。
あとは、二人で一つになるだけ、だったのに。二人は一つになるどころか、岡崎は、トイレの便器と一つになっていた。長い夜に、なりそうだった。
みゆきは、自分の腹を、そっとなでてみた。……なんともない。同じ生牡蠣を、同じだけ食べたのに、みゆきは、けろりとしていた。牡蠣は、当たる人と当たらない人がいる。今夜は、岡崎が貧乏くじを引いた。回遊魚の丈夫な胃袋が、こんなところで勝ってしまった。
◇
みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。
「久々の休日、池袋にて牡蠣三昧(生・フライ・焼き・パスタ・スープ)。最高。だが帰宅後、いい雰囲気の絶頂で、岡崎が生牡蠣に撃沈。『動いたら、あかん』の関西弁暴発を経て、トイレへ緊急避難。しあわせ、決壊。当方は無事(丈夫)。評価:★★★☆☆。生牡蠣は、罪な貝」
保存。
トイレのほうから、時おり、うめき声が聞こえてくる。みゆきは、冷たい水をコップにくんで、ドアの前に置いてやった。「生きてる?」と声をかけると、「……なんとか」と、力ない返事があった。
しあわせは、ときどき、こうして、思わぬところから決壊する。ゲロに追われ、道を聞かれ、そして、いい雰囲気は牡蠣に流される。回遊魚の人生は、どこまでも油断がならない。
まあ、それでも。今日の牡蠣は、うまかった。それだけは確かだ、とみゆきは思った。──次は、ちゃんと火を通したのに、しよう。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、牡蠣で、しあわせと恋人を、いっぺんに流された女。
今夜は、たぶん、一人で眠る。
みゆきである。
(第36話 了)
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次回 第37話「梅雨の総武線、レースの貴婦人、再び」




