第35話 日暮里、再戦(後編)
日暮里の人波の中で、みゆきの完璧な作戦は、崩れ去っていた。
あれほど練った。構内図をまぶたに焼きつけ、何番線、どの階段、どの改札、とすべて頭に叩きこんだ。なのに、ホームに降りた三十秒で、乗り換え客の濁流に飲まれ、案内板は人の頭に隠れ、みゆきは、どこへ向かっているのかさえ、わからなくなっていた。
壁にへばりつき、肩で息をする。去年と同じだった。回遊魚は、また日暮里で遭難しかけていた。
◇
だが、その時、みゆきは、ふと思い出した。
房総の、あの駅を。上総中野を。
あの一人旅で、みゆきは遭難した。次の電車まで一時間、なにもない駅で、完全に止められた。止まれない回遊魚が、世界のほうの都合で、無理やり止められた。そして、その止まった一時間が、思いがけないごほうびになった。
止まると、見えるものがある。
みゆきは去年、この日暮里で慌てた。流れに逆らって、あがいて、もがいて、溺れた。だが、あがくほど、日暮里は迷宮を深くする。
みゆきは壁際で、一度、目を閉じた。そして、深く息を吸った。
流れに逆らうのを、やめた。
◇
止まると、見えた。
さっきまで人の頭に隠れて、まったく見えなかった案内板が、じっとしていると、人の切れ間に、ちらり、ちらり、と姿を見せた。あの矢印。あの色分け。頭の中の構内図と、目の前の景色が、少しずつ、ぴたり、と重なっていく。
去年と今年のちがいは、たったそれだけだった。去年は、慌てて流れに逆らって溺れた。今年は、止まった。それだけで、迷宮は、ただの大きな駅に格下げされた。
落ち着いてみれば、なんてことはなかった。ここには、赤い線なんて最初からない。京葉線は、東京駅の地の果てにある。それを去年のあたしは知らなかった。だが、今年のあたしは知っている。もう、探すべきでないものを探して溺れることは、ない。
◇
立ち止まったみゆきの、すぐそばで。
おろおろしている、お年寄りがいた。
大きな荷物を提げた、おばあさんだった。案内板を見上げては、途方に暮れている。矢印の多さに、飲まれている。──去年のあたしだ、とみゆきは思った。あの日、赤い線を探して途方に暮れていた、あたし、そのものだった。
「どちらへ、行かれますか」とみゆきは声をかけた。
「あ、あの、京成に乗りたいんだけど。どっちだか、さっぱり」
みゆきは落ち着いて案内した。あそこの案内板を目印に、あの改札を抜けて、と。初富で毎日、お年寄りを相手にしている、その口調で、ゆっくりと。
去年、みゆきは五歳の子どもに神託を告げられた。あの子に道を教わって、やっと動けた。そして今年、みゆきは、このおばあさんの案内人になっていた。
導かれる側から、導く側へ。日暮里は、一年かけて、みゆきを、少しだけ大人にしていた。
◇
おばあさんを、京成の改札まで送り届けると、みゆきは、自分の乗り換えへ向かった。
もう、迷わなかった。流れに逆らわず、でも流されもせず。回遊魚は、濁流の中に、自分の進むべき筋を見つけて、すいすいと泳いだ。止まることを覚えた回遊魚は、泳ぐのもうまくなっていた。
みゆきは、目的の電車に悠々と乗り込んだ。学会の会場へは、余裕を持って着きそうだった。──もっとも、学会そのものは、正直どうでもよかった。今日の本当の目的は、日暮里だった。
そして、みゆきは、日暮里を抜けた。遭難、せずに。
◇
みゆきは、電車の座席でスマホを取り出し、岡崎にLINEを送った。
みゆき「日暮里、勝った。遭難しなかった」
岡崎「へえ。やるじゃん」
みゆき「止まったら、勝てた」
岡崎「なんだ、それ」
わからなくて、いい、とみゆきは思った。この勝利の意味は、たぶん、遭難した者にしか、わからない。
「回遊魚は、日暮里で遭難する」。それは、長いあいだ、みゆきの人生の副題のような、ものだった。
今日、みゆきは、それを書き換えた。──いや。書き換えた、というより、和解した、のかもしれない。日暮里は、あいかわらず迷宮だ。次に来たら、また迷うかもしれない。だが、みゆきはもう、この駅をこわがってはいなかった。溺れそうになったら、止まればいい。それを覚えただけで、じゅうぶんだった。
◇
みゆきはスマホを取り出し、「駅遭難録」を開いた。そして、こう書いた。
「日暮里、再戦。作戦は初手で崩壊するも、房総の教訓(止まる)を思い出し、生還。案内板、静止すれば見ゆ。迷えるおばあさんを、京成まで案内(導かれる側から、導く側へ)。乗り換え、成功。遭難、なし。評価:★★★★★。宿敵の駅と、和解した」
保存。
窓の外を、梅雨のはしりの東京が流れていく。あじさいが、雨に濡れて、いよいよ青い。憂鬱な六月も、悪いことばかりではなかった。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、宿敵・日暮里と、ついに和解した女。
今日は、終電を待たずに、帰れそうだった。
みゆきである。
(第35話 了)
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次回 第36話 牡蠣三昧の、代償




