第34話 日暮里、再戦(前編)
六月が、来た。
みゆきの、いちばん嫌いな月だ。祝日が一日もない。梅雨で、じめじめする。睡眠教の教祖にとって、六月は、一年でもっとも救いのない荒野だった。
そして、その六月に、一通の案内が届いた。歯科の学会の案内だった。会場までの経路を、みゆきは指でなぞった。そして、指がある一点で、凍りついた。
乗り換え駅。──日暮里。
みゆきの背筋に、去年の記憶が、ぞわりとよみがえった。
◇
覚えている人も、いるだろう。
みゆきはかつて、あの駅で、遭難した。
学会へ向かう途中だった。赤い京葉線を探して、日暮里の迷宮をさまよった。だが、日暮里に赤い線は、なかった。京葉線は、遠く離れた東京駅の、地の果てにあったのだ。みゆきは、京成と京葉を取り違え、案内板の海で溺れ、しまいには、五歳児に神託を告げられる、ざまだった。
あの日、みゆきは思い知った。自分は回遊魚のくせに、日暮里という一つの駅に完敗する女なのだと。「回遊魚は、日暮里で遭難する」。それは、みゆきの人生の、副題のようなものだった。
そして、その日暮里が。ふたたび、みゆきの行く手に、立ちはだかっていた。
◇
みゆきは、決意した。
今度こそ、遭難しない。
去年のあたしは、無策だった。ふらりと日暮里に飛びこんで、迷宮に飲まれた。だが、今年のあたしは、ちがう。みゆきは、ルールと準備を愛する女だ。一陽来復を零時きっかりに貼り、恵方巻きを恵方に向けて食う女だ。備えあれば、遭難なし。
みゆきはその夜、スマホとにらめっこを始めた。
日暮里駅の構内図を、開く。そして、愕然とした。
複雑だった。山手線。京浜東北線。常磐線。京成線。日暮里・舎人ライナー。改札がいくつもあり、階がいくつもあり、出口が無数にあった。線路が、こんがらがった毛糸玉のように、絡み合っている。まるで、要塞だった。ここで去年、溺れたのも無理はない、とみゆきは思った。
◇
みゆきは、作戦を練った。
まず、何番線に着くか。どの階段を上がるか。どの改札を抜けるか。乗り換えは、どの案内板を目印に進むか。何分、余裕を見るか。みゆきはそれをすべて書き出し、頭に叩きこんだ。診療の合間に、何度も構内図を見直した。
念のため、岡崎にも報告した。
みゆき「今度、日暮里で乗り換える。あの、日暮里で」
岡崎「また、遭難するなよ」
みゆき「しない。今回は、作戦がある」
岡崎「去年も、そう言ってた気がするけど」
みゆき「……うるさい」
岡崎の言うとおりだった。去年も、みゆきは余裕のつもりだった。だが、今年は本気の準備がちがう。みゆきは、日暮里の構内図をまぶたの裏に焼きつけて、眠りについた。夢の中でも、案内板を探して走っていた。
◇
そして、当日。
みゆきは、朝から臨戦態勢だった。早めに家を出た。乗り継ぎは完璧だった。総武線から、山手線へ。電車は順調に、みゆきを運んでいく。窓の外には、初夏の東京。梅雨のはしりの灰色の空の下、あじさいが青く色づきはじめていた。
みゆきの心臓は、少しずつ速くなっていった。
やがて、車内アナウンスが告げた。
「次は、日暮里。日暮里です。──京成線、日暮里・舎人ライナー、お乗り換えのお客様は……」
来た。
みゆきは、立ち上がった。構内図は、頭の中にある。作戦は、完璧だ。今日こそ、あたしは、この駅を攻略する。回遊魚は、日暮里で遭難する。──その副題を、今日、書き換える。
電車が、日暮里に滑りこむ。扉が、開く。
みゆきは、迷宮へ、一歩、踏み出した。
◇
そして。
ホームに降りた、瞬間。
みゆきの完璧な作戦は、初手から崩れた。
人だった。ものすごい、人の波。乗り換え客の濁流が、みゆきの想定を、はるかに超えて押し寄せていた。頭の中のきれいな構内図と、目の前の現実の雑踏は、まるで別物だった。案内板は、人の頭に隠れて見えない。矢印が、どっちを指しているのか、わからない。みゆきはその流れに、あっという間に飲まれ、押し流されて――
気づくと、自分が今、どの改札に向かっているのかさえ、わからなくなっていた。
日暮里は、健在だった。一年経っても、この駅は、少しもみゆきに優しくなっていなかった。
◇
みゆきは、スマホを取り出す余裕も、なかった。人波の片隅で、かろうじて壁にへばりつき、肩で息をしていた。
完璧な、はずだった。準備はした。作戦もあった。なのに、日暮里は、そのすべてを初手で飲みこんだ。
(──また、なの)
回遊魚は、また、日暮里で遭難しかけていた。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、宿敵の駅にて、作戦、開始三十秒で崩壊。
まだ、乗り換えは、終わっていない。
みゆきである。
(第34話 了)
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次回 第35話 日暮里、再戦(後編)




