第33話 おはぎは、誰の犬か
初夏の気配がしはじめた、初富。みゆきは実家の居間で、父のスマホをのぞきこんで、静かに憤慨していた。
父のLINEが、鳴りやまないのだ。
ぴこん。ぴこん。ぴこん。犬のスタンプが、次々と飛び交っている。父はそれに、いちいち犬のスタンプで返している。楽しそうだった。実に、楽しそうだった。
みゆきはその画面を見て、こう思った。
(──この人、あたしのLINEには一回も返してこないくせに)
◇
事の発端は、おはぎだった。
愛犬のおはぎ──白いビションプーで、見た目は大福で、おはぎ要素は皆無の、あの犬。父はその、おはぎに完全にメロメロだった。今年、みゆきに医院を譲ってからというもの、父の生活の中心は、すっかりおはぎになっていた。
なかでも最近の、父のいちばんの楽しみが、ドッグランだった。
毎日、おはぎを車に乗せて、近所のドッグランへ通う。そこで父は、おはぎを走らせ、ほかの犬の飼い主たちと知り合った。そして、いつのまにか「ドッグラン仲間」のLINEグループに、入っていた。
あの、無口で、患者にもろくに笑わなかった父が。
◇
みゆきは知っている。父は、返信をしない男だ。
みゆきが「元気?」と送っても、既読すらつかない。「今度、いつ帰る」と送っても、三日、返ってこない。父にとってLINEとは、届いても返すもの、ではなかった。そういう人だと、みゆきはあきらめていた。
なのに。
ドッグラン仲間には、秒で返す。犬のスタンプを連打する。「今日のマロンちゃん、かわいかったですね」「うちのおはぎも、大興奮で」なんて、絵文字まで使って、やり取りしている。土曜の集まりの相談まで、している。
みゆきはたまらず、父にLINEを送った。目の前にいるのに。
みゆき「そんなにLINEできるなら、あたしの連絡にも、たまには返して」
父は、そのみゆきのLINEを、ちらっと見て、そして、またドッグラン仲間に、犬のスタンプを返した。
既読、スルーだった。目の前で。
◇
だが、父からの連絡が、まったく来ないわけではなかった。
一件だけ、父がみゆきに、まめに送ってくる用件があった。
おはぎの、ワクチンである。
ドッグランを利用するには、狂犬病の予防接種と、混合ワクチンを、毎年ちゃんと打っておかなければならない。証明書がいる。そして、おはぎのそのワクチンの期限が、近づいていた。
父「おはぎのワクチン、そろそろだ。動物病院、連れて行ってくれ」
これには、即、返信が来る。娘の安否には無関心なくせに、おはぎの健康管理には、恐ろしくまめだった。
◇
だが、みゆきは忙しかった。
回遊魚である。歯科医院を掛け持ちし、訪問診療に回り、東京と千葉を泳ぎ回っている。おはぎを動物病院に連れて行く、その半日が、どうしても作れなかった。
父「ワクチン、まだか」
父「早く打ってやってくれ。ドッグラン、行けなくなる」
父「おはぎが、かわいそうだ」
催促は、日に日に増えていった。娘への連絡はしないくせに、おはぎのワクチンのことになると、父は急に雄弁になる。みゆきはその温度差に、また少し、恨めしくなった。
そしてある日。ついに父から、こういうLINEが来た。
父「もういい。自分で連れて行く」
◇
次に、みゆきが実家に帰ると。
おはぎのワクチンは、済んでいた。証明書も、ちゃんとファイルに入っていた。父が自分で動物病院に連れて行き、自分で手続きをし、そして、その足でまた、ドッグランに行ったらしい。
父はおはぎを膝に乗せて、でれでれと、その頭をなでていた。「なあ、おはぎ。今日も、いっぱい走ったなあ」なんて、みゆきには一生聞かせないような、猫なで声で。
みゆきの中で、例の感情が、むくむくとふくらんだ。
(──あたしの、犬なのに)
おはぎは、みゆきの犬だ。みゆきが飼うと決めた。名前も、みゆきがつけた。なのに父は、まるで自分の犬みたいにかわいがって、ワクチンまで自分で打たせて、ドッグラン仲間にまで「うちのおはぎ」と紹介している。あたしの、犬なのに。
みゆきは少しだけ、父に嫉妬した。犬に父を取られたのか。父に犬を取られたのか。もう、よくわからなかった。
◇
だが、でれでれの父と、その膝で腹を出して寝そべるおはぎを見ているうちに。
みゆきの恨み節は、少しずつしぼんでいった。
父は医院を譲って、暇になった。無口で、友達づきあいも得意じゃない。放っておいたら、家でぼんやりテレビを見て、老けていくだけだったかもしれない。
だが、おはぎが来た。おはぎのおかげで、父は毎日、外に出る。歩く。走る犬を追いかける。ドッグランで、人としゃべる。犬友ができる。生まれて初めて絵文字を覚え、スタンプを連打する。おはぎは父に、毎日の理由をくれていた。
みゆきには、できないことだった。回遊魚は、毎日は初富にいられない。父の話し相手には、なれない。だが、おはぎはなれる。おはぎはみゆきの代わりに、父のそばにいてくれている。
だったら、まあ。あたしの犬でも、父の犬でも、どっちでもいいか。
……いや、やっぱり、あたしの犬だけど。
◇
みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。今夜は、車内遭遇録ではない。
「実家の父、おはぎに完全陥落。毎日ドッグラン通い、犬友のLINEグループにて絶好調(娘のLINEは既読スルー)。ワクチンを自力で打たせ、『うちのおはぎ』と紹介する始末。あたしの犬なのに。ただし、おはぎが父の毎日を支えている件、認めざるを得ず。嫉妬、半分。感謝、半分。評価:★★★★☆。犬は、偉大」
保存。
みゆきは、父の隣に座って、おはぎのまあるい背中をなでた。おはぎは、父の膝と、みゆきの手の両方を、当然のように受け入れて、ぐう、と寝息を立てた。
どっちの犬でもいいらしかった。おはぎ自身は。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、実の父に、愛犬を半分、寝取られた女。
初夏は、もうすぐそこだった。
みゆきである。
(第33話 了)
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次回 第34話「初夏の総武線、日暮里が近づく」




