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第32話 総武線、オーラルケアの男、春の新装備

第32話 総武線、オーラルケアの男、春の新装備


 春の総武線。みゆきは、その、なつかしい男を、久しぶりに見かけた。


 オーラルケアの男である。


 総武線の車内で、歯磨きからフロスまで、フルコースの口腔ケアをこなすあの人だ。冬のあいだ、ご無沙汰していた。春の風とともに、彼もまた、みゆきの車両に戻ってきた。


 みゆきは内心、ほっとした。しっぽの男も、眠り姫も、無事だった。そして、この人も。春の別れの季節を、みんな、なんとか生き延びていた。


 だが今夜の彼には、明らかに変化があった。


  ◇


 装備が、増えていた。


 みゆきは歯科医の目で、その新装備を順に確認していった。


 まず、歯ブラシが電動になっていた。ういーん、という控えめな駆動音。それから携帯用のうがいコップ。折りたためるシリコンのやつ。さらに、サイズちがいの歯間ブラシ三本セット。そして極めつけは、舌ブラシだった。


 男は揺れる車内で、ういーん、と電動歯ブラシを走らせ、折りたたみコップでこっそりうがいをし、歯間ブラシをサイズ順に繰り出していく。


 車内に、洗面所が召喚されていた。


 みゆきは静かに感動していた。冬のあいだに、この人は進化していた。フルコースが、さらにコース料理としての格を上げていた。


  ◇


 そのあまりの本格ぶりに、ドン引きしている人がいた。


 みゆきの向かいに座った、若い会社員だった。目の前で電動歯ブラシをはじめた男を見て、ぎょっとした顔で、じりじりと距離を取っている。信じられない、車内でなにを、という顔だ。


 みゆきは、その反応を見て、なんだか可笑しかった。


 わかる。初見なら、そうなる。あたしも最初にこの人を見たときは、たしか、そういう顔をしていた。だが今のあたしは、ちがう。みゆきは動じなかった。むしろ、彼の新装備を玄人の目で鑑賞する側に、まわっていた。


 いつのまにか、あたしは、こっち側の住人になっていた。ドン引きする観客ではなく、うなずく常連に。


  ◇


 だが歯科医として、一点だけ見逃せないことがあった。


 舌ブラシだ。


 男は、新入りの舌ブラシがうれしいのか、舌を、ごしごし、ごしごし、と力いっぱいこすっていた。何往復も。えぐるように。


 みゆきの職業魂が、うずいた。だめだ。それはやりすぎだ。舌は、ごしごしこするものじゃない。強く磨きすぎると、舌の表面を傷つけて、かえって味を感じにくくなる。舌ブラシは一日一回、奥から手前へ、そっとなでるくらいでいい。


 みゆきは去年、この人にフロスの持ち方を指導した。その延長で、体が勝手に動いた。


  ◇


 みゆきとその男は、無言で会釈し合う仲である。名前も知らない。喋ったことも、フロスの指導のとき以外、ほとんどない。だが、歯を通じて通じ合う、奇妙な間柄だった。


 みゆきは、男と目が合った一瞬に、そっとジェスチャーを送った。


 自分の舌を指さし、それから手のひらで「そっと、そっと」と、なでるような動き。ごしごし、じゃなくて、やさしく。目でそう伝えた。


 男は一瞬きょとんとして、それから、はっ、とした顔をした。そして、舌ブラシを動かす手を、ふっとゆるめた。ごしごし、から、そっと、へ。


 通じた。


 男はみゆきに、深々と会釈をした。みゆきも会釈を返した。揺れる総武線の車内で、歯科医と、患者ですらない誰かが、舌の磨き方について、一言も交わさずに合意に達した。


 向かいの会社員は、その謎の無言の交信を見て、ますますこわい顔になっていた。


  ◇


 みゆきは思う。


 この人との関係は、たぶん、この世でいちばん変な間柄だ。名前も素性も、知らない。友達でも、患者でもない。ただ、歯と口だけでつながっている。フロスで始まり、舌ブラシで深まる関係。


 だが、悪くない、とみゆきは思った。世の中のたいていの関係は、名刺や肩書きや、たくさんの言葉でできている。でも、こういう歯だけの無言の関係も、ある。それはそれで、ちゃんと成立している。今夜もこうして、一つ、舌の健康が守られた。


 次の駅で、男は電動歯ブラシをポーチにしまい、フルコースを終えて降りていった。降りぎわ、また、深い会釈を残して。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。


 **「オーラルケアの男、春季、装備を大幅増強(電動歯ブラシ・携帯うがい・歯間ブラシ三本・舌ブラシ)。車内洗面所、進化。ただし舌磨きが過剰につき、無言のジェスチャーにて『やさしく』を指導、合意成立。向かいの新人客は終始ドン引き。なお当方、完全に常連側。評価:★★★★★。歯だけの関係、順調に継続中」**


 保存。


 電車は、春の夜を走っていく。みゆきは窓の外を眺めながら、ふと、自分の舌を、上あごにそっと当ててみた。うん。あたしの舌も、こすりすぎてはいない。教祖として、患者として、今夜も健全だった。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、見知らぬ人の舌を、無言で救った女。


 今日も、終電の一本手前。


 みゆきである。


(第32話 了)


---


*次回 第33話「おはぎは、誰の犬か」*


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