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第31話 お茶の水、隣の席のうまい話


 実家からの帰り道。みゆきは、腹をすかせていた。

 初富から、総武線で東京へ戻る。お茶の水で、ふと降りた。丸ノ内線が神田川の谷から顔を出す、あのあたりだ。みゆきは小さなカフェに入って、一人で夕食をとることにした。

 一人の食事は、みゆきの得意分野である。宮古島で、一人バーベキューを完遂した女だ。一人です、最高です。テーブルに運ばれてきた大きなハンバーグを前に、みゆきは静かに、満ち足りていた。

 だが、その静かな夕食は、長くは続かなかった。

  ◇

 隣の席の会話が、耳に入ってきたのだ。

 二人組だった。一人は、やたら羽振りのいいしゃべり方の男。もう一人は、若くて、押されぎみの青年。

「いいか。普通に就職してさ、定年まで働いて。それで、いいのか」

「はあ」

「俺は気づいたんだよ。時間を切り売りする働き方から、抜け出さないと。──権利収入って、知ってる?」

 みゆきのフォークが、止まった。

 これは。

 これは、いわゆる、あれだ。うまい話、というやつだ。ネズミ講のにおい。詐欺の香ばしさ。みゆきの観察眼が、ハンバーグから隣の席へ、ぐりん、と向いた。

  ◇

 みゆきはスマホを取り出した。そして、岡崎にLINEを打ちはじめた。実況中継の開始だった。

 みゆき「岡崎、大事件。隣の席、ネズミ講の勧誘してる」

 岡崎「知らんがな」

 みゆき「羽振りいい男が、若いのを落としにかかってる。今、『権利収入』出ました」

 岡崎「定番だな」

 みゆき「あ、『セミナー』来た。『先輩に会わせたい』も来た。役満だわ」

 岡崎「お前、飯食えよ」

 みゆきはハンバーグを口に運びながら、片手で逐一、報告を続けた。若い青年が、だんだん目を輝かせていくのが、こわかった。落ちる。あの子、落ちるぞ。みゆきは心の中で、実況の熱を上げた。

  ◇

 そのうち、みゆきの中に、よからぬ考えが芽生えてきた。

(──これ、その場で、ユーチューブとかで、生配信したら)

 みゆきは想像した。「隣の席の勧誘、実況してみた」。再生回数、爆発。登録者、うなぎのぼり。歯医者兼、配信者。日本一、口の中と車内と隣の席にくわしい、インフルエンサー。脚光。案件。

 みゆきはハンバーグを噛みしめながら、ひひひ、と小さく笑った。

 みゆき「あたし、これ配信したら、バズるんじゃない? インフルエンサーになれるかも」

 岡崎「頑張れ」

 みゆきの野望は、その二文字で、あっさり着地した。頑張れ。応援とも、あきらめとも、つかない二文字。岡崎のこういうところは、変わらなかった。

 結局、みゆきは配信も通報もせず、ただ、ハンバーグを食べ終えた。若い青年がどうなったかは、わからない。うまい話が実ったのか、しぼんだのか。みゆきは席を立った。世の中には、見届けないほうがいい話も、ある。

  ◇

 カフェを出た。

 夜のお茶の水は、風が少しあたたかい。みゆきはイヤホンを、耳に押しこんだ。中島みゆきを流す。これは、みゆきの鎧だった。「わたしは今、外の世界とつながっていません」という、世界共通の合図。話しかけるな、の記号。

 なのに。

「あの、すみません」

 声を、かけられた。

  ◇

 謎の、おばさんだった。

 地図のアプリを開いたスマホを片手に、みゆきの耳のイヤホンを、まるで無視して、まっすぐ話しかけてきた。

「聖橋って、どっちですかね」

 みゆきは、イヤホンを片方、外した。

 なぜ。なぜ、あたしなのか。夜のお茶の水には、ほかにも人が歩いている。イヤホンをしていない人だって、いる。なのに、このおばさんは、耳に線をぶら下げたあたしを選んで、聞いてきた。鎧は、まったく意味をなさなかった。

 みゆきは、聖橋への道を教えた。おばさんは礼を言って、去っていった。

  ◇

 みゆきは、外したイヤホンを耳に戻しながら、思った。

 あたしはさっき、隣の席を上から実況していた。配信して、インフルエンサーになろうと企んでいた。世界を観察して、面白がる側にいるつもりだった。

 でも、ちがった。

 あたしはいつも、巻き込まれる側だ。ゲロに追われ、眠り姫に頼られ、しっぽの男に会釈され、そして、イヤホンをしていても、道を聞かれる。あたしは、世界を外から眺める配信者には、なれない。いつだって、その雑踏のまっただなかで、誰かに話しかけられ、何かを頼まれ、ゲロを躱している。

 回遊魚は、海を眺める生き物じゃない。海のまんなかを泳ぐ生き物だ。傍観者には、なれない。だからこうして、毎晩、誰かとすれ違い、巻き込まれ、生きている。

 まあ、それはそれで、悪くない、とみゆきは思った。インフルエンサーには、なれなくても。

  ◇

 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。

 「お茶の水にて夕食。隣席、うまい話の勧誘を確認(権利収入・セミナー・先輩、役満)。岡崎に実況中継。配信によるインフルエンサー転身を構想するも、『頑張れ』の二文字で沈静化。帰路、イヤホン装着中にもかかわらず、謎のおばさんに道を聞かれる。鎧、意味なし。評価:★★★★☆。傍観者には、なれない女」

 保存。

 みゆきはイヤホンから、中島みゆきを流しながら、夜の街を歩いた。誰かがまた、話しかけてくるかもしれない。たぶん、それでいい。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、隣の席を実況し、道を聞かれ、結局、海のまんなかにいた女。

 春の夜は、あたたかい。

 みゆきである。

(第31話 了)

________________________________________

次回 第32話「総武線、オーラルケアの男、春の新装備」



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