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第30話 初富の歯医者、新学期の子どもたち

 四月。初富の桜は、もう散りはじめていた。


 葉桜の緑が、日ごとに濃くなっていく。町では、真新しいランドセルを背負った子どもが、緊張した顔で集団登校していた。新学期だ。ショウくんのような子が町を出ていく季節が終わると、今度は、小さいのが、どっと入学してくる。


 そして、初富の診療所にも、その小さいのが、やってくる。


  ◇


 その日の午後の患者は、ユイちゃんだった。六歳。この春、一年生になったばかり。


 乳歯に小さな虫歯が見つかって、初めての、本格的な歯医者だった。


 ユイちゃんは、待合室から、もうこわばっていた。診察台の前まで来ると、母親の脚にしがみついて、動かなくなった。目には、いっぱいの涙。


「や、だ」


 人生で、いちばん正直な、拒否だった。


 みゆきは悟った。今日の相手は、ハナさんでも、鈴木さんでも、車内の変人でもない。この世でいちばん手強い患者。──こわがりの、六歳児だ。


  ◇


 高齢の患者なら、世間話でほぐせる。車内の変人なら、遠くから観察していればいい。だが、六歳の恐怖には、そのどちらも効かない。


 みゆきはしゃがんで、ユイちゃんと目線を合わせた。


「ユイちゃん。こわいよね」


「……こわい」


「先生も、子どものころ、歯医者、こわかったよ」


「うそだ。先生なのに」


「本当。この診療所、あたしのお父さんのでね。あたしも、この椅子で大泣きしたの」


 ユイちゃんは、涙目のまま、少しだけ、みゆきを見た。信じたような、信じてないような顔だった。それでも、脚から手は、離れなかった。


 膠着状態だった。みゆきの、あらゆる大人向けの技術が、通用しなかった。


  ◇


 そこへ、診療所の引き戸が、がらりと開いた。


 父だった。その足元に、白いまあるいのが、ついてきている。おはぎだ。散歩のついでに、また様子を見に来たらしい。


 ユイちゃんの目が、涙をたたえたまま、まんまるになった。


「……わんちゃん」


「おはぎ、っていうの」とみゆきは言った。「大福みたいでしょ。おはぎのくせに」


 おはぎは、ぱたぱた尻尾を振って、ユイちゃんの足元に寄っていった。ユイちゃんは、母親の脚をそっと離して、おそるおそる、その白い頭をなでた。涙が、ひっこんでいた。


「ユイちゃん。おはぎが見ててくれるって。だから、お口、あーん、できる?」


 ユイちゃんは、おはぎをなでながら、こくり、とうなずいた。


  ◇


 治療は、あっという間に終わった。


 小さな虫歯を、削って、詰める。ユイちゃんは、おはぎをちらちら見ながら、最後までがんばった。泣かなかった。一度も。


「はい、おしまい。ユイちゃん、すごいね。一回も泣かなかった」


 ユイちゃんは、椅子から飛び降りて、得意げに胸を張った。さっきまで、脚にしがみついていた子とは、別人だった。子どもは、こわさを越えると、急に強くなる。


 帰りぎわ、ユイちゃんは、おはぎに手を振って、それから、みゆきにも手を振った。


「せんせい、ばいばい。……また、くる」


 また、来る。いい言葉だ、とみゆきは、また思った。


  ◇


 みゆきは、新しいカルテを一枚、おろした。ユイちゃんの、まっさらな一枚目。


 そこに、みゆきはこう書いた。


 「初診、六歳。乳歯にむし歯。診察台で半泣き。ただし、犬の登場により持ち直し、最後まで泣かず。よく、がんばりました」。


 書いてから、みゆきは少し、笑った。父がショウくんの三歳の初診に、「前歯・転倒・号泣」と書いた、あの字を思い出したからだ。


 あたしは、いつのまにか、始まりを書く側になっていた。


 ショウくんの十八年を、父から受け取って、送り出した。そして今、ユイちゃんの、これから始まる十八年の、いちばん最初の一行を、あたしが書いている。この子はこれから、乳歯が抜けて、永久歯が生えて、大きくなって、いつか町を出て――そして、たぶん、いつか、帰ってくる。その全部を、このカルテが、この診療所が、覚えている。


 初富の歯医者は、町の、いちばん長い日記帳だった。父が書き、あたしが継ぎ、これからも続いていく。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。


 **「初富にて、ユイちゃん六歳、新一年生、初診。乳歯のむし歯、処置完了。最強の患者(こわがりの六歳)を、おはぎの投入により攻略。泣かずに完走。カルテ一行目、記入(父のスタイルを踏襲)。『また、くる』とのこと。評価:★★★★★。始まりを、書く側になった」**


 保存。


 窓の外を、葉桜が揺れていた。散った花のあとに、もう、次の緑が来ている。町は今年も、誰かを送り出し、誰かを迎える。診療所は、そのぜんぶを、静かに書き留めていく。


 父は、おはぎを連れて、もう帰っていた。みゆきは、次の患者のカルテを手に取った。たぶん、また、たくあんを持った、おばあちゃんだ。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、六歳の恐怖を、犬一匹で突破し、新しい日記の一行目を書いた女。


 今日は、終電に乗らない。


 みゆきである。


(第30話 了)


---


*次回 第31話「総武線、オーラルケアの男、春の新装備」*



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