第29話 地上でも、ゲロは咲く
この国で、電車に乗るということは、ゲロと隣り合わせに生きる、ということだ。
みゆきは、それを体で知っている。週に二十四時間、電車に乗る回遊魚は、ふつうの人の何倍も、酔っぱらいと、その限界の瞬間に立ち会ってきた。だからみゆきは、ゲロを三歩で躱せる。予兆を読み、風上を取り、退路を確保する。長年かけて磨いた、生存技術だった。
その夜も、みゆきは警戒していた。
◇
帰りの、地下鉄。
車内には、いかにもあやしい男が一人、いた。赤い顔。うつむいた首。膝の上で揺れる、頭。みゆきのゲロ・レーダーが、けたたましく鳴っていた。あれは、来る。あれは遅かれ早かれ、咲く。
みゆきは静かに、その男から、車両ひとつぶん距離を取った。風上に立ち、いつでも動けるよう、足の重心を整える。臨戦態勢だった。
だが、その夜の男は、意外と粘った。
みゆきの降りる駅まで、男はこらえ続けた。咲かなかった。みゆきは無事に、その駅で電車を降りた。
勝った、と思った。今日も、ゲロ地獄を回避した。回遊魚は、また一日、生き延びた。
◇
地下鉄の駅は、深かった。
地上まで、ずいぶん上がらなければならない。みゆきは疲れていた。だから、階段でもエスカレーターでもなく、エレベーターに乗ることにした。
エレベーターには、先客が一人、いた。
……赤い顔の、男だった。
みゆきのレーダーが、また鳴った。だが、もう遅かった。扉は閉まっていた。狭い、箱の中。逃げ場はない。三歩下がろうにも、三歩ぶんの床がない。みゆきの生存技術は、車内でこそ輝く。この密室の箱の中では、なすすべがなかった。
みゆきは、息を止めた。あと少し。地上まで、あと少し。
エレベーターが、地上に着いた。
◇
扉が、開いた。
夜の外気が、流れこむ。男がふらり、と一歩、外へ踏み出した。地上だ。解放だ。みゆきも、そのすぐ後ろから、外へ――
その瞬間だった。
地上に出た男が、我慢の限界を、超えた。
ぶちまけた。
地面に、大輪のゲロの花が咲いた。夜のアスファルトに、みごとな一輪。みゆきのつま先の、すぐ先だった。
みゆきは、反射的に飛びのいた。長年の勘だった。着地地点を瞬時に読み、体をひねる。三歩、ではなかった。一歩半で、躱した。車内で鍛えた反射神経が、地上でも、みゆきを救った。
ぎりぎり、だった。
◇
みゆきは少し離れた場所で、肩で息をしていた。
男は地面に両手をついて、ぐったりしている。かわいそうに、とみゆきは思った。電車のあいだ、ずっとこらえて、こらえて、地上まであと一歩、というところで力尽きたのだ。惜しい。実に、惜しい。あと三秒こらえていれば、誰の記憶にも残らなかったのに。
だが、それより、みゆきが思い知ったのは、もっと根本的なことだった。
ゲロは、車内だけのものではなかった。
あたしは電車を降りた。地上に戻った。もう安全だと思った。なのに、ゲロは地上まで追いかけてきた。エレベーターに乗ってまで、咲きにきた。あたしが逃げた先で、ちゃんと待っていた。
回遊魚は、車内でも、車外でも、ゲロに追われる運命だった。どこへ泳いでいっても、ゲロは咲く。海の中だろうが、陸の上だろうが、あたしの行く先には、いつも、あの花が待っている。
◇
みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。そして、少し考えて、こう書き足した。
**「※車外遭遇録。地下鉄では回避に成功。だが油断した地上のエレベーターにて、最後の刺客が開花。地上に出た瞬間、大輪一輪。つま先の直前。一歩半で躱すも、肝を冷やす。教訓=エレベーターに『三歩』はない。ゲロは、車内でも車外でも咲く。評価:★★★★☆。回遊魚に、安全な陸地はない」**
保存。
みゆきは、ゲロの花を迂回して、夜の街を歩きだした。背中で、男がうめいている。誰か水を持ってきてやってくれ、と、少しだけ思った。ゲロは憎いが、ゲロを吐いた人間まで憎む気は、なかった。あれも、こらえた末の、敗北だ。
それにしても、と、みゆきは夜空を見上げた。
電車で追われ、地上でも追われる。あたしの人生は、どうやら、どこまでもゲロと共にあるらしい。回遊魚とは、そういう生き物なのだ。泳ぐ限り、花は咲く。
四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、地上にて、最後の一輪を、一歩半で躱した女。
今日も、なんとか、生き延びた。
みゆきである。
(第29話 了)
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*次回 第30話「初富の歯医者、新学期の子どもたち」*




