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第28話 新京成線、桜の下の眠り姫


 桜が、咲きはじめた。

 新京成線の線路ぎわにも、ぽつぽつと桜の木がある。夜になると、街灯にうっすら照らされて、白い花が闇に浮かぶ。夜桜だ。みゆきは初富へ帰る電車の窓から、その、流れていく桜を、ぼんやり眺めていた。

 春は、別れの季節だ。この冬から春にかけて、車内の常連が何人か消えた。しっぽの男は、この前まだいた。だが、もう一人、みゆきが気にしている常連がいた。

 新鎌ヶ谷の、眠り姫である。

  ◇

 しばらく、見ていなかった。

 彼女も春に、どこかへさらわれてしまったのだろうか。異動か、引っ越しか。それとも、ついに寝過ごした終点から、帰ってこられなくなったのか。みゆきは少しだけ、心配していた。無報酬とはいえ、長く目覚まし係を務めてきた仲だ。

 だが、その夜。

 いつもの優先席のはしに、彼女はいた。

 こくり、こくり、と舟を漕ぎ、やがて糸が切れたように、深く眠りに落ちていく。一秒で入眠。相変わらずの早業だった。眠り姫は、春も健在だった。

 みゆきは、なぜか、ほっとした。

  ◇

 電車がひと駅進んだところで、眠り姫がうっすら目を覚ました。そして、となりのみゆきに気づくと、ふにゃりと笑った。

「あ。目覚まし係の、お姉さん。お久しぶりです」

「お久しぶりです。生きてました?」

「生きてました。……あの、今日も、お願いしていいですか」

 そして、いつもの要求が始まった。新鎌ヶ谷で、起こしてください。荷物を見ててください。変な人が来たら、追い払ってください。それから――

「わたしが寝てる間に、スマホ触ろうとしたら、止めてください。元彼に、LINEしちゃうんで」

 変わっていなかった。この人は、酔うと元彼に、LINEを打ちたくなる。みゆきは、その震える指を、何度押さえてきたか、わからない。目覚まし係は、いつのまにか、元彼防波堤も兼任していた。

「……了解です」とみゆきは言った。もう、慣れたものだった。

  ◇

 眠り姫は安心したように、また目を閉じかけた。だが、ふと思い出したように、つけ加えた。

「あ。それから。──今日、桜がきれいだから。いい感じの夜桜のところで、一瞬だけ起こしてもらえますか。一瞬で、いいので」

「桜、見たいんですか」

「見たいです。……でも、寝たいので。一瞬で」

 欲張りな注文だった。桜も見たい。でも、寝たい。みゆきはなんだか、可笑しくなった。だが、その気持ちは、わからなくもなかった。

 電車が、線路ぎわの桜並木にさしかかった。夜桜が、窓いっぱいに、白く流れる。みゆきは約束どおり、眠り姫をそっと揺すった。

「桜ですよ。一瞬だけ」

 眠り姫は薄目を開けた。窓の外の夜桜を、ほんの一秒だけ見た。そして、

「……きれい」

 と、つぶやいて、また、すとんと眠りに落ちた。

 一秒で満足していた。桜を一秒。睡眠を、それ以外ぜんぶ。潔い配分だった。

  ◇

 みゆきは、眠る眠り姫を見守りながら、思う。

 この人はたぶん、睡眠教のいちばん位の高い信者だ。桜より、睡眠。花見より、睡眠。どんなうつくしいものの前でも、迷わず眠りを選べる。眠るモノは救われる。彼女はその教義を、生まれつき体でわかっている。

 教祖のあたしは、いつも、それがうらやましい。

 ただ――最近、少しだけ、あたしも眠れるようになった。岡崎がホワイトデーにくれた、あの枕のおかげだ。あいかわらず寝落ちで歯を磨くし、口もゆすがないが、それでも枕に頭をのせると、前よりすっと、眠りがやってくる。

 教祖も、少しずつ救われてきているのかもしれない。信者一人の小さな宗教にも、春は来る。

  ◇

 新鎌ヶ谷が、近づいてきた。

「新鎌ヶ谷ですよ。起きてください」

 眠り姫はふらふらと立ち上がり、桜の匂いのする夜の駅へ、降りていった。スマホは無事だった。元彼へのLINEは、今夜も阻止された。荷物も揃っていた。目覚まし係の任務は、完了だった。

 最後まで、名前は聞かなかった。次にいつ会うかも、わからない。だが、たぶん、また会う。そしてまた、桜だろうがなんだろうが、隣で爆睡している。

 みゆきはスマホを取り出し、「車内遭遇録」を開いた。

 「新鎌ヶ谷の眠り姫、春も無事に登板(消えていなかった)。要求は例年通り四点+『夜桜で一瞬だけ起こして』。桜の鑑賞時間、一秒。残り全部、睡眠。睡眠教・最高位の風格、健在。評価:★★★★★。なお当方、枕を得て、少し眠れる教祖に昇格」

 保存。

 窓の外を、夜桜が流れていく。みゆきは、つり革につかまった。今日も、人の眠りを守った。そして今夜は、自分も、あの枕で、少しは眠れるだろう。

 春だった。眠るには、ちょうどいい季節だった。

 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、眠り姫の目覚まし係、元彼防波堤、そして夜桜の案内係。

 今日も、終電の一本手前。

 みゆきである。

(第28話 了)

________________________________________

次回 第29話「地上でも、ゲロは咲く」


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