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第27話 四十歳のホワイトデー


 三月半ば。丸ノ内線の車内は、ホワイトデーの、そわそわした空気に包まれていた。


 紙袋を提げた会社帰りの男。スマホでお返しを検索している人。街じゅうが少しだけ、義理と本気の精算に追われている。みゆきはその中を、赤い電車に揺られて帰る。丸ノ内線は今日も御茶ノ水で、神田川の谷から、ひょっこり地上に顔を出した。


 みゆきはひとつ、たくらみをあたためていた。


 今日は、岡崎の誕生日だった。四十歳の。


  ◇


 覚えている人も、いるかもしれない。


 去年、みゆきの誕生日に、岡崎はこう講釈をたれた。「四十歳ってのはな、もう青年じゃない。おじさんとおばさんの、境目なんだ」。三十九歳の岡崎は、自分はまだ青年の側で、四十のみゆきは境界線の上、という構図を、地味に楽しんでいた。


 みゆきはあのとき、静かに、心のノートに記した。「この借りは、来年、返す」。


 みゆきは、宮古島の恨みを三年、保存できる女だ。一年など、あっという間だった。そしてその日は、今日、来た。岡崎がめでたく、境界線のこちら側へ落ちてくる日が。


  ◇


 夜。岡崎が、雑司ヶ谷にやってきた。


 みゆきは先月、義理とも本気ともつかない、小さなチョコを渡していた。だから今日は、たぶん、そのお返しもある。だが、みゆきの本当の目当ては、そこではなかった。


 みゆきは頃合いを見て、切り出した。


「ねえ、岡崎。今日で、四十でしょ」


「おう」


「四十歳って……もう、青年じゃ、ないよね」


 岡崎の動きが、止まった。


「おじさんと、おばさんの、境目、だっけ? 誰かが去年、そう言ってた気が、するんだけど」


 岡崎の顔が、ゆっくりとこわばっていった。自分の去年の言葉が、一年の時を超えて、そっくりそのまま、自分の脳天に降ってきたのだ。


「……なんでやねん!」


 動揺すると、東京育ちのくせに、関西弁が出る。みゆきはその暴発を確認して、満足した。倍返し、成功だった。


  ◇


「お前、それ、一年、覚えてたのか」


「あたしを誰だと思ってるの。宮古島を三年、覚えてる女だよ」


「こわ……」


 岡崎はうなだれた。四十歳の誕生日に、一年ごしの意趣返しを食らって、青年の座から転げ落ちた。因果応報だった。


 みゆきはしばらく、そのうなだれた岡崎を眺めて、勝利を味わった。


 だが、そのうち、なんだか、勝った気がしなくなってきた。


 だって、岡崎が四十歳になったということは。


 みゆきも、岡崎も、二人とも、もう同じ、四十の側にいる、ということだった。


  ◇


 境界線は、もう、二人のあいだにはなかった。


 去年は、みゆきが線の上で、岡崎が青年の側だった。だが今年は、二人ともそろって、線のこちら側にいる。並んで。おじさんと、おばさんの側に。


 考えてみれば、それは、悪くない光景だった。


 みゆきは、四十歳をそんなに嫌いじゃなくなっていた。「おねえさん」と呼ばれれば、今でもこっそり嬉しい。おはぎがいて、医院があって、患者がいて、車内には変な人たちがいて、そして、こうして誕生日に勝手に上がりこんでくる、四十歳の元彼がいる。


 悪くない、四十だった。一人で線の上に立っているわけじゃない。となりに、同じ側に落ちてきた間抜けが、一人、いる。


「まあ。二人とも、こっち側だね。おじさんと、おばさん」とみゆきは言った。


「……お前が、先に来てたんだろ」


「一個下でしょ。威張らないの」


  ◇


 岡崎は思い出したように、紙袋を差し出した。ホワイトデーのお返しだった。


 中身は、枕だった。


「なんか、よく寝れるやつ、って、店の人が言うから。お前、いつも寝不足だろ」


 ロマンのかけらもない、贈り物だった。チョコのお返しが、枕。四十歳の、色気のなさだった。だが、みゆきはその、絶妙に外した枕を受け取って、なんだか、じんわりした。


 この男は、あたしが睡眠教の教祖で、万年寝不足で、いちばん眠りを欲しがっていることを、ちゃんと知っている。空気は読めない。だが、あたしのことは、たまに、こわいくらいよく見ている。


 睡眠教の教祖への贈り物としては、たぶん満点だった。


  ◇


 みゆきはスマホを取り出し、メモを開いた。今夜は、車内遭遇録ではない。


 **「三月十四日、岡崎、四十歳。昨年の『四十はおじさんとおばさんの境目』発言を、一年の熟成を経て本人に返却。動揺により関西弁が暴発、青年の座より陥落。倍返し成功。ただし当方も同じ四十のため、勝敗は実質、引き分け。ホワイトデーのお返しは、枕(快眠仕様)。評価:★★★★★。二人そろって、こちら側」**


 保存。


 その夜、みゆきは、もらった枕で眠った。よく眠れた。となりで、四十歳の岡崎も、いびきをかいていた。二人して、境界線のこちら側で、堂々と寝ていた。


 四十歳。独身。歯科医師。回遊魚。睡眠教、教祖。本日、一年ごしの借りを返し、枕を一つ手に入れた女。


 春の夜は、少しずつ、みじかくなっていく。


 みゆきである。


(第27話 了)


---


*次回 第28話「新京成線、桜の下の眠り姫」*




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