68.帰還
「全てがそうとは言いませんが、きっとこの世界になら、貴方の望むものもあると、私は思います。だからもう少しだけ心を開いて下さい」
「…善処しよう。それと、あんたにも世話になったな。あの時はあしらうような真似をしてすまなかった」
笑みを向け、近く訪れる別離を前に言葉を交わす。サリュア・メル・サロンド。言うまでもなく、彼女の協力無くしてレイシアを救う事は叶わなかった。
誰一人欠けても成し得なかった奇跡。それは仕える主人の後ろで凛と立つ。この男も当然、例外ではない。
「お気になさらないで下さい。お嬢様と同じく。この数日間、夜神様を深く知れた事でこの胸に蟠りは御座いません。私の目に狂いはなかった」
執事、ラインフィル・ダート。この男がいなければサリュアの協力を取り付ける事は出来なかっただろう。
『…申し訳ありませんが、協力は出来かねます』
『頼む…あいつを、レイシアを助ける為に今、どうしても必要なんだ。ここを乗り越えたら…何かが変わる気がするんだ…だから頼む…!』
『或いは命の危機に瀕していた…かもしれない状況から救って頂いた事には感謝しています。ですが、それと貴方に対する好感は別です。レ…シーア様にはお気の毒ですが…お引き取り下さい』
全てを語り終え、尚否と言い放つ。理由はそう多くない。
一つは最上級の回復薬、エリクサーを求めているのが夜神だけではないという事。そしてもう一つは言葉の通り。
いつもの調子でレイシアと、彼女の名を呼ぶ男に少なからず動揺もあった。がしかし、踏み込む必要はない。
そも、容姿さえ記憶にあるものとは異なるのだから他人の空似。名が同じだけの者ならこの世界にごまんと居るだろう。あくまでも、シーアという女性冒険者に対する応対とすればいい。
また同道を経て、別れの際には帰りの護衛を頼みたいと口にしたが、それは彼に、ではなく彼等に対しての望み。
傲慢不遜な男の印象も、積み重ねる機会が無かった彼女の中では変わりもしない。であれば。首を縦に振るまで言い募る。
ここが正念場と覚悟を決め、夜神の次を遮るように。静観を続けていた男が口を開いた。
『…お嬢様、差し出がましいようで恐縮ですが…夜神様がその気になれば、交渉など必要ないのではないのでしょうか。有無を言わさぬ力で奪い取る。ないし私達を殺してしまう事も出来ながら、こうして頭を下げ続けている』
『……………』
『自分の為であるなら理解が及ぶ所もあるでしょう。しかし、仲間とは言え誰かの為に。あの暴君が。私は、柊夜神様という男に興味が尽きません。旦那様には私から謝罪を致します。ですのでどうか、夜神様の頼みを聞き入れてはもらえないでしょうか。このラインフィル、お嬢様に対して初めての願いをどうか』
『…理由を尋ねてもいいですか』
『たんなる老婆心でございます。ですが、この方を知ればきっと、お嬢様の心証も変わると思います。…手段なら幾らでもあるのです。それだけの力を私達は先日、この目で見ました。魔族の討伐を成し、オークションの開催に必要な手筈を整え。誰のお陰でと言う事も出来る立場でありながら、夜神様はただひたすらに頭を下げている。何故なのか。私は知りたくて仕方がありません。…そもそも、彼が私達に悪意を向けた事など一度もなく。何故、ガジェル様達はここへ彼を案内したのか。脅したなどとは今の姿からは到底…きっと彼等の行動を変えるだけの何かが、この数日にあったのではないでしょうか』
柄にもなく、饒舌に述べるラインフィルに目を向け。先を促し羅列する事実など、解っていた。
これはただの意趣返しと言えなくもない。自尊心無くして貴族足り得なければ、そう簡単に譲る事など出来なかった。
興味が湧くほど目の前の男に好感もないが、サロンド家に仕えて数十年。ラインフィルが自身を差し置いて誰かの為に言葉を尽くす姿を見るのは初めての事。
言い募る老輩の切望に傾き始める天秤は、次の問いをもって結論が出される事となる。
『…夜神様は何故、その絶大な力をお使いにならないのですか?ラインフィルの言うように、私を黙らせ、従わせるだけで事は済むのではありませんか?』
『…そうする事があいつにとって…あいつらにとって最善なら言われるまでもなくそうしているさ。けど、今はそうじゃない。俺はあいつらと穏やかな日々を送りたいんだ。だからお前にどれだけ罵られようと、力ずくなんて真似はしない。今俺に出来るのは、お前が首を縦に振るまで頭を下げ続ける事だけ。…お前の事情も理解はしている。どうあっても無理と言うなら同じ物を必ずもう一つ、手に入れて渡す。だから今回は譲ってほしい。この通りだ』
すっ…
『……幾つか条件があります。それら全てを飲めるならオークションへの参加、及びエリクサーの落札をお譲りします』
認めた訳じゃない。まして、男の本質に興味が芽生えた訳でもありはしない。それでも、僅かな時間で湧き上がる疑問は多く。特にレイシア・イアス・ラン・ルーウィン。彼女が本当にこの国の王女であるなら、その変化には多大な興味があった。
荊姫と揶揄され始めて幾許か。王城でも姿を見なくなってから久しい彼女がまるで…まるで別人のような振る舞いで男の側に侍る。その理由と経緯を知りたい。
下世話な好奇心と言われようと、始まりは男を凌ぐ王女の秘密に他ならなかった。
「そうか…お喋りが過ぎたな。フェルメースからの護衛に加え、質問には全て答えろか。で、借りた金の見返りをまだ要求されていない訳だが…言った通り、俺に出来る事なら何でもしよう。何が望みだ」
「では、再会の約束をお願いします。お貸しした金銭の返却も、回復薬の譲渡も必要ありません。いつか…この世界を巡り、孤島を買って悠々自適に暮らしたい、と。貴方が築く理想郷への招待状、これを対価に頂きます」
「はっ…何年掛かるかも分からない。俺の勝手な望みだ。五年後になるか、十年後になるか…或いは国を転々としているかもしれない…もしもの話にあれだけの大金を積める程、伯爵の令嬢ってのは気前がいいのか?」
あれから、王女の話を聞くにつれ。男に対する興味も少しずつ湧いていった。
止めどなく溢れる疑問より、柊夜神という男を知りたくなった。
あの時は何故、何も語らなかったのか。どうして横暴な振る舞いをするのか。そうする事で人との関わりを拒絶する理由。果ては王女をどのように思っているのかまで。サリュアはたった数日で凡ゆる質問を投げかけ、誰とも違う答えに更なる興味を引かれていった。
男にとっての約束、その意味を知り。男にとって大切なもの。これを護る為なら自身はどう見られても構わないと言う。
そんな風に思われる王女を羨ましく思い、これが嫉妬であると気付くのにそう時間は掛からなかった。であれば、無理難題を課して困らせようとする女心もあるだろう。
「ふふっ…これはいつか在りし日の話。一人の若者が生涯を懸けて夢を追ったそうです。…空に浮かぶ島。その名を天空の古都エリュシオン。彼は仲間と共に幻と言われる天空の都を探し、世界を旅しましたが…夢半ばで敗れたそうです」
「……………」
(…お嬢様……)
「………おいおい…まさか…」
「最上級の回復薬。エリクサーは貴族の間でも二つ目の命として名高く。実在も認められている確かな品です。先日のオークションにも国内のみならず、他国から来たと思われる貴族の顔がちらほら見えました。が、エリュシオンはこの世界の誰一人として実在を証明した者がおりません。それどころか、この名を知らぬ者の方が多い。さて…ここで一つ、問いましょう。柊夜神様。貴方の大切な仲間の命は、幻の都と釣り合いませんか?」
しかして悪戯な笑みと共に語られる。冒険譚の一幕のような、これぞ異世界の浪漫と言うような。幻想の都エリュシオンについて。
或いは、そんな場所がある事を教えてくれているのかと思いきや。雲行きの怪しい結末に思い至る。
確かに島を買い、のんびりと余生を送りたい。そう話はしたが…サリュアはこれを見つけ出し、そこへ自身を招待しろと。暗にそう要求している事に気付いた矢先。間髪入れず言葉を紡ぐ。
もはや恩着せがましいと言う次元ではない。貴族という生き物の図太さに度肝を抜かれ。然りとて今はもう、大切な仲間を引き合いに出されては否と言い難く。夜神は僅かな逡巡を経て口を開くと、渋々とこれに頷いた。
「……………はぁ…分かった。けど、約束は出来ない。天空の古都か…そんなものが実在するなら俺だって一目見てみたいと思うが…まったく、高い代償になったもんだ」
「ふふっ。勿論、見つけられたらで構いません。世界を巡り、それでも実在しないのであれば…その時は、小さな孤島で私をもてなして下さい。招待が来るのを心待ちにしております」
「やれやれ……それじゃあ俺はそろそろ…」
「…はい」
ざっ…ざっ…ざっ…
そして間も無く。曖昧な話に浮く約束と、次善の代価を突き付けられ。息を漏らして別れを告げる。
その背を見つめ。男の後ろ髪さえ引く事が出来ない切なさが込み上げる。
「……………」
「名残惜しいですか」
「…ねぇ、ラインフィル。私では彼に釣り合わないかしら」
「あの方の心根を知れば。そう思う気持ちも分からないではありません。ですが…お嬢様は今両手に持っている全てを手放す事が出来ますか。…恐れながら…今ここで立ち尽くしている事が答えではないかと」
「そうね…私は貴方を置き去りに…このサレーテアを置き去りに駆け出し、彼の背に抱き付く事は出来ない。レイシア王女…まさかあのお方がこれ程変わられるなんて。容姿もそうだけど、名を変える意味を考えれば…国を捨てて夜神様に付いていくつもりなのでしょう。けど…」
(…何か違和感が…夜神様は建前として魔王打倒を掲げている。後に魔王など捨て置き世界を巡る事はまだ彼女にも話していないと言っていた…前回の勇者召喚からたったの二年…王都でのお披露目が無い事は夜神様の性格を考えれば分からないでもないけど…今思えば早過ぎる。それに、何故国を捨てる覚悟をしなければならないのかしら…順序が逆のような…)
「お嬢様?」
「いえ、何でもありません。…届かないと知りながら、気持ちを抑える事が出来ないもどかしさ…何とも言えないですね。婚期が遠のいてしまいそうです」
たった数日では足りなかった時間。ふと過る疑問が続く疑問を呼ぶ連鎖。それも、今は詮なき事。
ただ、淡く色付いた胸に手を当て再会に想いを馳せる。
一つ、また一つと増えていく不自由に笑み零せるようになったのは誰のお陰か。予期せぬ長居に関わり、此度最後となる別れを交わしに舞い戻る。
女は無事に目覚めただろうか。靡く銀色の髪とあの笑顔をもう一度。
それでも、恩には報いると決めた。誰が仇で返そうとも自分だけはと心に誓った。そうする事で、微かな希望を残そうと思ったから。
「今回は本当に助かった。ありがとう。お陰で無事、回復薬を手に入れる事が出来た。あいつを死なせずに済んだ…今は何も返す事は出来ないが…いつか必ず、この恩に報いると約束する」
言いながら、幾度目かの感謝を込めて頭を下げる。あれから更に時は過ぎ、フェルメースへと帰還を果たした男は彼女達が待つ宿ではなく、三度目となる娼館を訪れていた。
「顔を上げて下さい。私はただ、勇者がこの街に現れたと触れ回っただけですから」
「いや、お陰で余計な手間が省けた。得体の知れない男が自称するよりも、面倒だが問われて明かす素性の方が腑に落ちやすい。未曾有の危機に現れる救世主ほど、民衆の心に刺さるものもないからな」
「そうですか。でしたら…ふふっ。この子の機嫌を取って頂けますか?あの日の朝、夜神様の姿が見えずに酷く混乱し、また落ち込んだせいで暫く仕事にならなかったものですから」
娼館の支配人エリスの人脈と、言葉をもって瞬く間に広がる勇者来訪の噂と共に。見た事もない魔物を狩って現れるFランクの冒険者。
これを見ては都合良く。素性を隠して訪れた勇者の偶像が出来上がる。
まさか、貴方様は…そんなやり取りを煙に撒き、意味ありげな言葉を残してその場を去った後はただ、期待と噂が一人歩くのを待てばいい。
勇者がこの街にいるなら魔族など恐るるに足らず。たった数日で平穏を取り戻した街は、次に英雄を讃え始め。かと思えば忽然と消えた姿。
間も無く飛び交う憶測は、彼女の不安を煽りに煽った。
「…いや、事前に朝早くここを出ると伝えていただろう…」
「そういう問題じゃありません!まさか一週間以上も戻って来ないなんて思いもしませんでした!…また、何も言わずに去ってしまったのかと…」
「…いや、すまない。色々と忙しくて…」
「言い訳は必要ありません!」
「分かったから…そうがなり散らすな。…で、俺はどうすればいい。謝罪だけでは納得しないんだろ」
言いながら、すぐ隣に座る女に目を向け、苦笑いを零すエリス。先程から…いや、男が此処へ来た時から不機嫌さを露わに睨め付ける。
ハルメアは聡く空気を読み、黙してただその時を待った。そして、烈火の如く荒れ狂う口撃に、何が悪い訳でもなかった筈の夜神が罪悪感に言い窄む。
お前には関係のない事だと。そう口にしないのは、何故だろうか。罵倒に混じる寂しさが胸を刺すのは、どうしてだろうか。
声を掛けられ。気紛れに手を差し伸べ。そして求められるままに抱いた。たったそれだけの関わりだった筈なのに。気付けば壁を越え、怖気も遠慮もありはせず。
一度目は神の気紛れでも構わなかった。二度目は余りにも早い再会にただ、驚くばかりだった。そして三度続けば我儘だって言えるくらい、積み重ねたと思いたい。
「…抱いて下さい…私が果てるまで、いえ、果てようと…何度も…何度も何度でも抱いて!そして…いつか、なんて曖昧なものじゃなく、いつか必ず…今度は私を求めて、また会いに来ると約束して…」
「…はぁ……揃いも揃って…何でこんな人間との再会を望むんだ。それに…街の騒ぎを知っているだろう。此処へ来るのも大変だったんだ。これ以上この街に居たら色々と面倒な事に…」
「夜神様、私に報いると言うなら…ハルメアの願いを聞いてもらえませんか。彼女のやる気がこの店の、ひいては私の利益となります。それに…女が外聞を捨ててその身を抱いてほしいと言うのは、夜神様が思う程簡単な事ではありません。今日が最後だと言うなら尚のこと…ハルメアに一夜の夢を見せてあげてくれませんか」
それはまるで願いのような。頼みのような。縋るような言葉で。
これが此度最後の別れと言うならば。再会の約束をしたとて次に会えるのはいつの日か。
傷付いた仲間の為に。そう経緯を語り聞いた際、ハルメアは咄嗟に尋ねてしまった。
『その方は…女性…ですか』
これに対する夜神の答えは言わずもがな。大切な仲間だと話す表情に彼女だけでなく、エリスも気が付いた。きっと、それ以上である事に。
であれば。一夜の夢と言い回し、失恋の痛手を気遣われる。そんな弱い女であったなら…消息を絶つ男に対し、ここまで憤りはしなかった。
「エリス様…申し訳ありませんが…一夜の夢で終わるつもりはありません。情欲に女を欲した時、夜神の想う女は私です。抱きつくせない女であると。いつ何時夜神に求められたとしても悦ばせてみせる…けど、この胸はもうそれだけでは満足出来ない…心はもう満たされない。だから…いつか必ず、私を抱きに来て。忘れられないくらい尽くすから…今、貴方と過ごす時間と、必ず訪れる再会の約束が欲しい」
出会い、積み重ねを経て変わっていく他者との繋がりが少なからず、男の言動を変えた事実を踏まえるならば。再会を機に、抑えていた想いが溢れる事もあるだろう。
一度目は夢に見た願いの成就、その充足感に次など考えも及ばなかった。
二度目は自身の膝で心地よく眠る男の寝顔を愛おしく思い。冷えたシーツの跡をなぞって喪失感に心を病んだ。
そして。誰かが心を満たすなら、私は男の身体を満たしてみせる。
サリュア・メル・サロンド。彼女は長年仕えた執事と、愛する街の人々。サロンド家の務めを選び。ハルメアは蝶として在り続ける事を選んだ。
そう、誰に限らずとも積み重ねたものがある。誰もが全てを捨てられる訳ではない。それでも…。
『この世界の女は折れるって事を知らないのか』
男にそう言わしめる。強かな女達は再会を望み、我儘に振るまってみせた。
「…分かった。今日はお前と、この街最後の夜を過ごそう。それと…次に会うのはいつの日か。約束を違えるような事はしないが…俺はこの世界を見て回りたい。…いや、違うな…あいつらと出会って…この世界に住む様々な人の、想いの形を見てみたいと思うようになった。だから…」
「待っています。ですがいつまでも、とは言いません。せめて…私が煌びやかな蝶でいる間に、会いに来て下さい」
「…そこまで言うなら…世界を巡り、またこの街に、お前に会う為にここを訪れよう」
果ては星の数程ある出会い。
知己となり。友を得て。再会を望む者達と別れを惜しんで言葉を交わす。
始まりは人間らしく、終わりは人らしい。滑稽な喜劇であったとしても、繋がりに胸熱く、約束に心が踊り、次への期待は否応なく高まっていく。そんな男の帰りを待ち続け。窓から晴れ渡る空を眺めて幾日か。遂に、女が待ち侘びた再会が訪れる。
「はぁ…あんたも飽きないわね」
「…ふふっ。騒めき立つ街の喧騒が…この身が今こうして立っている奇跡が…全てが…私の為だった。茜様だったから、なんて言う憂いはもうありません。…夜神様の想いは私にも向けられる」
未だ醒めぬ賑わいに混ざる救世の代名詞。その名を聞くたびに湧き上がる喜びを噛み締めるように。
窓から街を見下ろし、恍惚に浸るレイシア。…その横顔に、ふつふつと湧き上がる対抗心。
「違うわね。兄さんの優しさは大切だと思った人達に向けられるもの。きっと…あたしだってその範疇に在る。あんただけに向けられるものじゃないわ」
姉が惚れた、最初で最後の男であると分かった日から、二人の妹で在りたいと求め。同じだけの想いを注がれたいと選んだ居場所。それを、まるで自分だけが寵愛を受けている。そうも聞こえる口振りに反応を示すと、シャラは一瞥もなく、想いを馳せるレイシアの妄想に水を差した。
「…勿論、分かっています。けど、特別なのは私だけ。いつか愛するのは私だけ。今の私は夜神様にとって価値ある仲間…ですが次は…」
「やれやれね…図太いと言うか、ぶれないと言うか…けど、兄さんの精霊はあんたを認めてないんでしょ?余程の事がない限り、精霊との契約は死ぬまで続く。今回は幸いにも兄さんを知る人と会う事はなかったけど…。記憶の消去に際して提示された条件の一つは出会いの再現か。…ねぇ、そのアリカってどんな精霊なの?」
もう既に。張り合う気などありはしないが、黙する事も出来ずに口を衝く。それでもやはり。
命を救われた事実と、命を救われる過程において証明された彼女の価値は疑いようもなく。
何を言っても止まりはしない惚気に辟易と。そして、話題はシャラのふとした疑問から移り変わっていく。
「そう言えば話していませんでしたね。闇の特性を持つ最上位の精霊…ヨルのアリカ。彼女は自身のことをそう呼んでいます。まるで二つ名のように、夜神様の名を冠して誇らしげに。本来の姿は人間の少女と言って差し支えないですが、基本的には黒い猫の姿を模倣している事が多いです。愛らしい見た目に反し…鋭い殺気を向けられた事も少なくはありません。また主人に似たのか、夜神様以外を余り信用していない節があります。彼女は…私よりも長い間夜神様の側に居ましたが…その間、何があったのか。またどうしてかの街が氷に覆われる事になったのか…その一切を語ろうとはしない…」
「…その髪も…本当はシャーリー王女と同じ色だったんでしょ?他にも何か、条件とかあるの?」
「夜神様に一度だけ…透き通る綺麗な髪だと褒めてもらった事があります。…後は…そうですね。夜神様にとって、私が有象無象の類ではないと証明する事。出来なければ命を差し出すと、約束をしました」
「え…あんた…そんな簡単に…」
「簡単な事ではなかった。…命を賭けてでも、私は夜神様にとってたった一人の愛すべき女になる。その覚悟があっての言葉です。…彼女は、きっと何があっても夜神様を裏切りません。精霊でありながら、その想いは親愛を勝る。或いは私よりも強い想いを秘めているのかもしれません。だからこそ、今の私をあの子が傷付ける事はないでしょう」
今はまだ、全てが謎に包まれた闇の精霊、ヨルのアリカ。世界の半分を渡り、終点アーリスイフに至るまで。彼女はその軌跡に何を積み重ねてきたのか。
最上位の精霊を前に臆する事なく言い募る。女の計略に殺意を向け、動揺を露わにし、そして男の言葉を思い出す。
同時に、目に付く蒼い髪。行く先々で懐かしむように語られた出会いと別れ。そう思った事がないと言えば嘘になるだろう記憶の抹消について。女は耳当たりの良い言葉を並べ、幾つかの代償を支払う事で願いを聞き入れてもらったと。
そう、話には聞いていたが…まさか自身の命さえ糧にしていようとは思いもよらなかった。
「…兄さんの大切な人だから、か。是が非でもっていうあんたとは正反対ね。けどそうなると…レインは兄さんの精霊と上手くやっていけるのかしら…」
「…夜神様はレインについて何と?」
「誰だって普通は自分の命が惜しい。あれは人間だ。信用も信頼も出来ないが、あーいうのが一人くらいいた方が旅はきっと面白い。だってさ。あたしはちょっともう、あいつを仲間だと思えないけど、兄さんがそう言うなら…」
想い、愛の形はそれぞれあれど。短くはない日々を過ごす中でレインだけが、男との関わりを避けてきた。その結果は言うまでもなく。
小さくはない亀裂を生み、芽生えなかった友情だけでなく。取り返しのつかない後悔と罪悪感だけを残し、時は過ぎた。
常ならば此処に在る筈の姿が見当たらないのも、気まずさに居心地の悪さを覚えるせいだろう。しかし、夜神にとっては彼もまた繋がりの中に在る。
例え始まりが人間らしい偽善だったとしても、この街で得た何もかもが綺麗だった。であればこの先もまた、思いもよらない出会いを引き寄せてくれるのではないか。そんな風に期待を語る、兄の口調を真似して噂をすれば…影よりも確かな男の姿が目に映る。
がちゃ…
「え…」
「夜神兄さん…!」
「…ようやくお目覚めか。流石に今回は肝が冷えた。騎士団長との約束もあるんだ。余り無茶をしないでく…れ…」
あの日。私は貴方の、価値ある何かになれたのだと。尽くした日々は無駄でなかったのだと。答えをくれた。
我儘かもしれないけど、次は貴方の言葉が欲しくて。
朝も、昼も、夜も。
次に会えたら何て言えばいいだろう。
何て問えばいいだろう。
どんな態度だったら貴方は答えてくれるだろう。
どんな顔をしたら喜んでくれるだろう。
助けてくれた感謝を伝えるべきだろうか。
心配を掛けた事を謝罪すべきだろうか。
次に会えたら。次に会えたら。次に会えたら。
目覚めた日から、そんな事ばかりを考えていました。
なのに。いざ貴方を前にしたら言葉なんて出てこなかった。
貴方を目にした瞬間、この身は言葉を置き去りに、駆け出していたんです。
ばっ…!
「夜神様っ…!」
「って、おいおい…これで何度目だ」
「……ぅ…うぅ…ありがとう…ございます…」
「…気にする事はない。俺が勝手にした事だ」
果たして。日々を妄想に費やした甲斐もなく。レイシアは男の胸に額を当てて涙を流し。両手で強く服を掴むと、ありふれた感謝を口にした。
…今ほど、言葉を頼りなく思った事はない。この胸にある想いを、世界にある語彙では言い表す事すら難しい。
或いはこの胸を裂き、見せる事が出来たなら…貴方をどれほど想っているか。どれ程幸せに満たされているか、知ってもらうことが出来たかもしれないのに。
そんな、在らん限りの気持ちを込めて。強く胸を打つ想いに。夜神の両腕がゆっくりと、女の腰へ近付いていく。
す…
「う…うぅ…ぐす…ぅ…」
「…もう一度、お前の笑顔が見たくて…柄にも無く頑張ったんだ。ありがとうと、そう言うなら笑顔で言ってくれ。…お前の…揺れる銀髪と、弾ける笑みが…この世界で初めて見る、綺麗なものだったんだ」
すっ…
「…………ありがとう…ございます…!夜神様!」
「あぁ…悪くない」
ぽふっ…
腰に添えられた左手と、頭部に乗せられた右手。
男の腕はまだ、女の想いを受け止め抱き締める事はなかったが、それでも。旅立ちの日を振り返れば上々。積み重ねを求めて練習に励んだ努力に見合う対価としては最上。
今もまだ。胸に埋める顔は到底、人に見せられるようなものではないけれど…貴方が望むなら。
もう何が飛び散っているかも分からない、くしゃくしゃな顔で。感謝と喜びを目一杯込めて微笑んで見せる。
いつもと変わらない不器用な褒め言葉。いつか見た、魔道具に描かれた絵を眺める優しい眼差し。
成り代われる。成り代わってみせる。この先に待つ踏み絵を超え、一線さえ超えてしまう日は近けれど。大丈夫。誰を裏切ったとて貴方の愛が手に入るなら。貴方が求めてくれるなら。
かくして。感動の再会を果たし。この街全ての伏線を回収した男は、先程から生暖かい目を向けている妹分に気まずさを押し殺して声を掛けた。
「…シャラ、レインを呼んできてくれ。クソ魔族のせいで随分と長居する羽目になったが…これ以上は何が出張ってくるかも分からない。出発の準備だ」
「はいっ!」
街の領主。ギルドを運営するギルド長。果ては国王に王女とまぁ…柊夜神の物語に、そんな端役は必要ない。
勿論例外はある。既に出会いを経てはいる。が、彼はぶっ飛んだ物語を望んでいる訳じゃない。
ありふれた街の人々。冒険者。人語を解する獣達。或いは路地裏で生活を営む孤児だっていい。…いや、そんな人達がいい。
そこに綺麗な想いがあるのなら、偽善を振り翳し、手を差し伸べてみよう。そうする事で少しでも、人に希望が見出せるなら。いつか、こいつらにくらいは心を開けるかもしれない。
そんな胸の高鳴りと共に声を上げ。一行はこの日、フェルメースの街に別れを告げたのだった。




