66.得られた対価
それから数時間後。
が…ちゃ…ぎぃぃ…
がたっ…!
『…っ!柊さ…!?何だ…あんたか。…その様子だと、あんたは無事だったみたいね…』
すっ…
『……無事…?それは…どう言う意味だ。…夜神は…いないのか…』
『あー…そっか。あんた、何も知らないのよね』
昏く静まり返った室内に射し込む灯り。唐突に訪れた気配に振り返るシャラは、目に映る姿に落胆の息を零し。そして。仲間の帰還に知らず胸を撫で下ろした。しかし…。
その異様な雰囲気に気付かぬ疲労。視線を切り、背に受ける男の言葉に違和を覚え始めると、諍いに深めた小さな絆は、大きな亀裂を生む事となる。
『だから…それはどういう意味だと聞いてるんだ!』
だんっ…!
『…ようやく戻ってきたと思えば…何大きな声出してるのよ。あんたも色々大変だったと思うけど…こっちだって気が立ってるんだから…!あんま苛々させないでくれる』
『なら、さっさと話せ。シーアは…』
『はぁ…あんたも此処へ来る途中、外の様子は見てきたでしょ。あたしと柊様はあんた達を助ける為に迷宮に入って…』
『待て…』
『…あんた…柊様にでもなったつもり?…いい加減あたしも…』
『シャラ…お前の背後にあるそれは…何だ…』
肩越しに男を振り返り。また身を翻し相対す。常と変わらぬやり取りは、しかし怒声と共に床を打ち。憔悴が滲む表情に、悟る困難があれば鎮まっていく。そんなシャラの気遣いを過ぎて交差する視線の先。
寝台に置かれた頭部のような布の塊と、僅かに膨らむ夜具の揺らぎ。そこには横たわる何かが在るようで。それは、諦観に過ぎる罪悪感を振り払うように。レインはシャラの言葉を遮ると、睨め付ける視線さえ跳ね除け踏み出した。
『え…あぁ…だから、それも今から説明するって言ってるで…ってちょっと…!』
だっだっだ…!
『シーアっ!』
ばさっ…!
『…あんた…何やってんのよ!?勝手な事しないで!柊様が…あたしがどんな想いで繋ぎ止めたと思ってんの!?』
『…シーア…なのか。これは…生きて…いるのか…』
『………死なせていたら…あたしはもうここに居ないわよ。…柊様もまだ戻ってないわ。あたし達は、あんた達を助ける為に迷宮に入って…そこで魔族と遭遇した。…何があったかは分からない…けど、あたし達がシーアを見つけた時にはもう…』
そうして、目にした女の姿は変わり果て。信じ難い現実に言葉を漏らす。
全身を覆う夥しい量の包帯。その隙間に覗く焼けた肌。ここまでなら辛うじて…平静を保つ事も出来ただろう。
捲り上げた夜具の下。そこにある筈の手と、足と、髪も。全てが。何もかもが瞼に焼き付く蒼と異なる姿に苛立ちも、語る言葉も届きはしない。
迫る獄炎に怯み逃げ出した己の弱さ。二度目の後悔。罪悪感に押し潰され後退る心。
破綻する幻想は絶望に留まらぬ惨めさに染まり、レインを闇へと引き摺り込む。
『そん…な…』
『…はぁ…ったく何て顔してんのよ。辛気臭いからやめてくれる?…それよりも……手足を失ったシーアに比べて…あんたは随分とましな様子だけど…今まで何してたの』
『…あの炎に…やられたのか…何で…いや…逃げられなか…ったのか…まさかあいつの為に戦って…いや違う…違うだろっ!俺達はいつか、小さな村で二人…』
それはまるで悪夢に溺れ魘される幼子のように。曖昧な境界を超えて逃避する。
いつか聞かれた問いの答えも、今なら言える気がしていた。いや、そう決めていたし、もうその手には何も残っていなかった。
そんなレインの絶望も、或いは全てを失った自身の姿と思えば、理解の及ぶ胸の内もあるだろう。
震え、立ち尽くす側で冗談めかす。同時に。僅かな違和感を覚える様相に棘のある問いを浴びせると…シャラは堕ちてゆくレインの迷言に、あってはならない結末を巡らせた。
『…あんたもしかして…シーアを置いて一人、逃げてきたの…?』
『…っ…黙れ!そんな場合じゃなかった!迷宮を焼き尽くす炎が…それで俺とシーアは引き離されて…。魔族…あれは常人の敵う相手じゃない!それに…あいつらの目的は夜神の…異世界人の筈だ!シーアはきっとあいつを庇って…俺のせいじゃない…!これはあいつの…夜神のせいだ!あいつが此処にいるから…!』
『呆れた』
ぴくっ…
『…お前に…何が分かるっ!?』
『あんた馬鹿なの?分かる訳ないでしょ』
がしっ!
『お前っ…!』
『…放してくれる?この身体は柊様にしか触れさせない。それにあたしなら…今のあたしなら、例えあんたでも見捨てたりしなかった。そういう大事なことを、柊様から教わった。けどレイン、あんたは一度でも柊様とまともに話した事があったの?』
核心に至る痛烈な言葉。その一言で我を取り戻す程の屈辱と、矮小な己に対する怒り。
元より優しさなどなかった女の辛辣に、悪夢を振って掴み掛かる。
何故、曲げてしまったのか。何故、折れてしまったのか。何の為に立ち上がり、想いを胸に秘めたのか。
一度目はそれでも良かった。けど二度目はもう、失うばかり。
男に対するシャラの言葉は、見つめる瞳は、その姿勢は容赦なく。答えを口にする事さえ憚る自尊心だけは捨てられず。レインは視線を逸らし、沈黙に俯いた。
『……………』
『…さっさと離して』
ぱしっ!
『…すまない…』
『……………』
『…シーアは…助かる…のか…』
『…助けたのよ。それ以上の事なんか…あたしに分かる訳ないでしょ。けど、あの柊様がそう簡単に諦めるとは思えない。だから今は柊様の帰りを…』
がちゃ…
そして間も無く手を振り払い。気まずさに勝る女の安否に口を衝く。レインの言葉に視線を移し。横たわるレイシアに目を向け、零す不安を見透かすように開かれる。
煌々と照る灯りに伸びる影。そこには激闘を終え、返り血に濡れる男の姿があった。
『……………』
『柊様…!』
『夜神…』
待ち侘びた再会に喜び勇み。男の姿に笑みを向け。しかし。醸す悲観に掻き消える。
その態度はにべもなく。あるのは焦燥と、ただ焦燥と…。間も無く、シャラは憂いを察し。また小さくその名を口にするレインは後ろめたさに二の句を継げず。夜神はただ一点を見つめ、ゆっくりと歩き出した。
かつ…かつ…かつ…
『………レイシア』
『…すいません…手は尽くしたんですけど…精霊の方は無事です。今はシーアの核に…』
その悲痛な声に締め付けられる。大空洞で刹那に見る男の涙。
それ程に大事だと。何よりも大切だと。慌てふためき使用する回復薬の効果は確かに傷を癒やし、焼けた肌を潤した。命を危ぶむ窮地を脱し…繋ぎ止めた。そう、繋ぎ止め、繋ぎ止めるに留まった。
死なせるな。そう言われた時から薄々と気付いていた。助かった訳ではない。だからこそ駆け抜け、屈辱を飲み縋った。
果たして。望むべくもない結果に。期待に、応える事が出来たのだろうか。
不安を抱え。怯え俯く女の言葉に、夜神はここで初めて目を向けた。
『…そうか。いや…寧ろよくやってくれた。よく、こいつの命を繋ぎ止めてくれた。…ありがとう。後の事は俺がどうにかする。…悪いが少し出てくるから…こいつの事を見ててくれ』
『えっ…今帰ったばかりなのに!何処に行くんですか!?少し休んだ方が…!やる事があるならあたしが代わりに行きますから!』
『明日の夜には一度戻る。お前の方こそ酷い顔だ。疲れただろう。今日はゆっくり休め』
誰を信じる事もなかった男の言葉。頼り、求める事がなければ聞くに及ばぬ感謝の言葉を耳にする。
シャラは綻ぶ口元を隠し。そしてやり切ったと。小さな胸を張る暇も無いまま背を向け過ぎる。
言いたい事も。話したい事も。聞きたい事だって沢山あった。なのに…。
不意の言葉に追い縋り、剰え気遣われ。言いながらその場を後にする男の前に、レインは恥辱と気まずさに塗れた顔で立ち塞がった。
すっ…
『夜神…その…』
『…なるほど。どうやら俺は期待し過ぎていたらしい。それが人間て生き物だ。恥じる事はない…無事で良かったな』
『…ぐっ……』
昏く言い淀む言葉は床に落ち。どれだけ下を見ようと折れた牙など見当たらず。赦しを求めて立ち尽くす。
数刻前とは見違える覇気のない姿。大空洞に見なかった勇姿。その答えは言わずもがな。夜神にとって侮蔑とは程遠く、ありふれた人間の姿であると共に興味も失せる。
気遣いも、優しさも。許しさえ掠める言葉が胸を刺す。無様で惨めな己に対する怒り。
後戻りなど出来ない過去と潰えた未来。人の愛憎とは、いつどうして湧き上がるのか。
去っていく背を振り返る事も出来ず。また届かぬ背に手を伸ばす。
全ての出会いが巡り繋がる奇跡へと続く。その始まりは髪を靡かせる風と共に。今一度シャラの気を引き世界へと目を向けさせた。
ざわざわ…
がやがや…
「…じゃあ、まずはこれを聞いて」
「………?」
すた…すた…すた…
がこんっ…
今ではもう耳に慣れ、辟易する程に聞き及ぶ街の喧騒。それも静まり返る室内に在っては言うに及ばぬ賑やかさと。言いながら、窓へ近付くシャラの言動に疑問符を浮かべるレイシアは次の瞬間…耳朶を震わせるその言葉に。かの者を呼ぶ声に、我が耳を疑った。
「勇者様ーー!」
「異世界の勇者様ー!」
「俺を仲間にしてくれっ!」
「てめー何言ってんだ!勇者様の仲間になるのは俺だっ!」
「勇者様!必ずや魔王を打ち倒してくださいっ!」
隔絶された世界の楔を解き放ち。風と共に舞い込む民衆の叫び声。
次第に聴き馴染む救世の代名詞。それは男を知る程に遠い栄光で。それは男が最も忌むべきもの。
天を穿つ怒りを。想いが芽生えたあの日を決して忘れはしない。であれば行き着く答えなど知れたもの。
「これは…一体…異世界の勇者ってまさか…!?」
「…そうよ。あの日、あんたを助けに迷宮へ行き、戻った日から…夜神兄さんの素性はたった数日で瞬く間に広がった。それも、全てはあんたの身体を治す為。…少しは思い出したようだけど…多分きっと、あんたの傷はあんたが思っている以上に酷いものだった。…そこの精霊と一緒にあんたを運べと言われた時は正直、怖かったわ…」
「……………」
驚愕に声を上げるレイシアに向き直り、徐に口を開く。シャラの言葉に高まる期待と、そうであったらと願う気持ち。同時に視線を逸らし、昏い影を落とす。その表情に、一体どれ程の心労を掛けたのか。
救われた事実を噛み締め。けれど何を口にする事も出来ぬまま。翳り俯く女に再び目を向け、シャラはこう問いかけた。
「…ねぇ、知ってる?最上級の回復薬。その効果と希少性、そしてこれがどれ程価値のある物か」
「えっと…はい…凡ゆる傷を癒やし、損傷だけでなく欠損した部位まで修復し、再生する…その価値は言わずもがな……途方もないとだけ…」
「そう。本来ならSランク冒険者でさえ稼ぐのに数年を要する程の金が飛ぶ代物。兄さんはこれに見合うだけの金銭を、たった数日で稼いでみせた。寝る間も惜しみ…踏破した迷宮の階層は連日のように更新されていったわ。…その偉業を聞いて…黙っている訳がない。ギルドに詰め寄られた兄さんはその絶大な力の根源を…素性を明かした。自身が異世界から来た勇者であると。…ギルド側も、Sランクに指定される魔物を目の前に出されては疑う余地もなかったそうよ」
その声色は俄然軽やかに。要領を得ない問い掛けに知る限りの知識でもって答えを告げると、次いで語り聞かせるシャラの表情は自慢げに。また眉間に皺を寄せ、眉を折って呆れて見せる。
そんな風に他人を気遣い、慮ることを知ったのもつい最近の事。
過ぎる凄惨な仕打ち。手足を失った女の姿。今でさえ、まだ現実味も曖昧で。実感さえ湧かないのは何故だろうか。
そんなつもりじゃなかった。けれど、不意に視線を逸らす気まずさに胸が痛む。まだ素直になれないシャラの、これが精一杯。
「……………」
「…同時に方々へ頭を下げて回復薬の情報を集め、あの貴族令嬢を頼って…オークションに参加した。…レインは勿論、あたしも有り金を全て兄さんに託したけど焼け石に水。…時価である以上、競り合う相手が居れば値も釣り上がる。けど、次にいつ機会が訪れるかなんて分からない。…或いは…なんて不安を堪えて兄さんを見つめるあたしとレインを他所に…兄さんはサリュアに腰を折ってこう言った…」
『…俺に出来る事なら何でもする。だから頼む、金を貸してくれ』
「……夜神…様が…私の為に……」
ぎゅっ…!
「ほんと…あんたが羨ましくて仕方なかったわ。あの兄さんが…柊夜神と言う男が頭を下げる意味を、あたしも少しは理解してるつもり。…けどこれについてはもう、自分の気持ちに折り合いを付けてあるから。…と、話が逸れたわね。まぁそんなこんなで兄さんは今、見返りの一つとして領地へ帰るサリュアの護衛を請け負ってる。後数日もすれば戻ってくるわ」
「…夜神様……」
「…これが、シーア。あんたが救われるまでの、今日までの顛末よ」
かくして。死地を彷徨い記憶の途切れた空白の七日間。その軌跡を知ったレイシアは友を強く抱きしめ。小さな口元に手を当てると、今にも溢れそうな涙を必死に堪えた。
「…そう…でしたか…シャラにも…迷惑を…」
ぽた…
「…やれやれ…他に今、すぐに聞いておきたい事はある?」
「…いえ…ありま…せん…」
「…そ。なら…私は少し外すわ。疲れたでしょ。続きはまた後で…次はそう良い話でもないから、覚悟しておく事ね」
震える唇で紡ぐ感謝の言葉。よりも深く響く喜び。
気を抜けば決壊を免れない感情の堰は遠からず。これ以上の話などきっと耳に入りはしないだろう。
救われた奇跡を。尽くされた想いを。より一層深まる愛を噛み締めて。堪えている。堪えられていると。知らず零れる涙を拭う時間くらい、あってもいい。
そう言外に言い含め、背を向けるシャラは返事を待たずに歩き出した。
すた…すた…すた…
ぎぃぃ…
「………………」
ぎゅっ…!
「…シア様…?」
自惚れてもいいのだろうか。滲む視界に揺蕩う現実と、浮かぶあの日の別離。
無駄ではなかった。貴方の為に失い、手にした何もかも。
分かっている。解ってはいる。それでも、ほんの少し思う所があってほしい。
そうして望んだ小さな対価。果ては命さえ懸けた想いの代価。
顔を向けるどころではない。ただ一点を見つめ、言葉を返す事さえ出来ない程に込み上げる。目に溜まった想いが今、堰を切って溢れ出す。
「…う……うぅ…ぐっ……ひっぐ…うぐっ…」
許される筈がない。この涙は、胸は悔しさと、申し訳なさに募るものでなければならない。そう思えばこそ、歯を食い縛り嗚咽を堪え。
こんなにも幸せでいいのだろうか。こんなにも、満たされていいのだろうか。
奔走する男の姿を思い浮かべ。戦いに傷付き勝利する男の姿を思い浮かべ。頭を垂れ、縋り求める男の姿を思い浮かべる。
その全てが自身の為であったと。男の優しさを知り、不器用さを知り。恐れるものを知るが故。喜びに打ち震え、咽び泣く。
「夜神…様…夜神様…!」
会いたい。会いたくて仕方がない。一分一秒でも早く。
聞きたい。問いただしたい。それら全ては事実なのかと。
けれど貴方は、どうせまたいつものように溜息を零してはぐらかす。
知己でもいい。友でもいい。仲間でも、勝手に付いてきたおてんばな姫でも構わない。
けれど私は、貴方にとって大切な何かになれたのだと。そう思ってもいいのだろうか。そう、言ってくれるだろうか。
が…ちゃ…
すっ…ぴと…
「全く…これで兄さんの気持ちを裏切ったら容赦しないから…」
すた…すた…すた…
一夜を語り明かせば察するに余る。言葉通り、羨ましくも恨めしいぶれる事のない想い。
きっともう、死闘の末に手足を失い、生死の境を彷徨った事など忘れているに違いない。いや、どうでもいいに違いない。
それ程に、柊夜神という人間の行いは…行いが自身に向けられた事実は大きく。その意味を知ればこそ。他の一切など、瑣末な事だった。




