35.ロミア・テーゼ
こんこん…
「…シーアです。少しいいですか?」
がちゃ…
「…どうしたんだ、こんな夜更けに」
「突然すいません。もしかして…忙しかったですか?」
「いや、そんな事はないが…あいつなら酔ってぐったりしてるけど…呼んでくるか?」
静まり返る室内に、突如舞い込む誘いの響き。レインは扉へ歩み寄り、目の前に立つ女の姿を見て知らず表情を強張らせた。
どうせ。そんな気持ちが滲む声音と、無造作に向けられた視線。顎をしゃくって問い掛けると、レイシアは恥じらう様にこう答えた。
「いえ、大丈夫です。実はその…私も少し飲み過ぎてしまったようで…夜風にでも当たりながら酔いを覚まそうかと…良ければ付き合ってもらえませんか?…この時間に一人と言うのは不安で…」
「勿論、それくらい構わない。でも…シーアが酔っているところなんて初めて見るな」
「ふふっ…そうでしたか?余り覚えていません。…では、準備が出来たら下に来て下さい」
「分かった。すぐに行くから待っててくれ」
赤く染まる頬と、女性らしい奥ゆかしさ。上目遣いで迫る女の色香に抗える者は、そう多くないだろう。
胸の奥で弾ける鼓動。湧き上がる情欲。レインは緩みそうになる口元を引き締めると、言うが早いか用意を済ませ、寝息を立てる男の様子をちらと窺い部屋を後にした。
それから数分後。
「……あー……完全に飲み過ぎたな…ったく…何やってんだか…」
断続的に訪れる意識の消失を繰り返し、一人ごちる。男は見慣れぬ天井を見上げ、虚な記憶と酒に溺れたいつかを手繰り、知らず目を閉じ寝息を立てる。
掴みきれぬまま遠ざかり、霞に消え入る微かな思考。
それは、深い眠りの狭間に訪れた。
こんこん…
「…………」
こんこん…
「……………」
がちゃ…
「……おいおい…嘘だろ…」
室内に響く乾いた音が、沈みかけた男の意識を掬い上げる。
薄らと目を開け、辺りを見回し。ふと、違和感を覚え身体を起こす。
記憶を辿れば少し前。剣を持ち、部屋を出て行く姿を見たと。そう思わざるを得ない状況。何故なら今、ここに在るのはただ一人。
吐き気と頭痛に苛まれ、動ける気などしやしない。扉に続く通路を見つめ、夜神は再び身体を横たえた。
しかし。間も無く扉は開け放たれ、差し込む光と這い寄る気配に警戒を強め身構える。次の瞬間。男は自身の顔を覆い、狼狽の声を漏らした。
すた…すた…すた…
「…柊様……」
「…シャラ…か?」
「はい…」
「…そう言えば話があるとか言ってたな…」
すっ…
「失礼します…」
「あぁ、それで……って…いや……ちょっと待ってくれ……悪い…思った以上に酔ってるみたいだ。…話はまたにしてくれ…」
不意に現れた女の装いはヴェールのように薄く。淡い、桃色のキャミドレスから零れる色香に視線が留まる。
月明かりに照らされ透ける肌。羽織りを下げる仕草に欲情が滾ると、もう既に。半歩の距離まで迫った女に手を突き出し顔を背ける。
一体、この状況はなんなのか。困惑し、狼狽える男の腕を取り、女は臆する事なく踏み込んだ。
「……………」
すっ…
「ちょっ…おい…!」
「貧相な身体ですが…良ければ柊様の慰みものにして下さい…正直、こういうのは初めてで…何をどうすればいいかも分かりません。だから、好きなように…」
(ロミア姉さん、あたしやっぱりだめ…。普通に生きていくなんて…ましてや姉さんを殺した奴らを忘れる事なんて出来ない!…もうすぐ、手の届く所まで来たの…だから…)
紡がれた願いと、数奇な運命に翻弄され。
これはとある国のとある町にて。後に姉と慕う者との出会いの記憶。
がさがさがさ…
『……………』
ざっ…ざっ…ざっ…ざっ…
『ちっ……仕事は終わったんだ。こんな所、さっさと出ようぜ』
『…後始末が先よ』
廃れ、寂れた町を歩き。ごみを漁る少年を横目に仲間を引き連れ濶歩する。
貧富、善悪、そして力が生み出す闇に潜み、悪逆非道な依頼をこなす者達。その中に、まだ全てを諦め切れず、光に手を伸ばす一人の女がいた。
彼女の名は、ロミア・テーゼ。
『…わぁかってるよ。言ってみただけだ』
『けど、こんな廃墟みてーな町の一つもなきゃ潜伏するのに困っちまう』
『がはははは!そりゃ違ぇねぇや!』
『…まったく…ほら!』
ひゅっ…
『ん?…おっとっと…』
ぱしっ…!
『今回の報酬。あんた達といると騒がしくてしょうがないわ』
ちゃり…
『へへ…じゃあ、俺達は一足先に一杯やってるから、いつもの所で待ってるぜ!』
調子が良いのは今に始まった事じゃない。下卑た笑みを浮かべ、そそくさとこの場を後にする。男達を見送り、ロミアは人影も疎な路地裏へと足を踏み入れた。
鼻を抜ける汚臭。ふと見れば、そこかしこで蝿が舞い。物乞いと、孤児ばかりが目に付く貧困の吹き溜まり。
今は亡き師に拾われ、愛情と生きる術を叩き込まれた。
恨んではいない。感謝もしている。しかしどうしてか。胸に燻るこの気持ち。
ざっ…ざっ…ざっ…
『……………ん?』
『……………』
ざらついた風を受けながら、物思いに一人歩く道の途中。不意に感じる視線に目を向けると、路地の隙間に覗く見窄らしい薄紅髪の少女と目が合った。
『……………』
いつかの自分と同じように。売られ捨てられ流されて。辿り着いた場所でただ生きている。
目に光はなく。身体は痩せ細り。希望など、ある筈がないと諦めていた。
ざっ…ざっ…ざっ…
『…生きたいなら付いてきな。あたしが居場所を与えてやる。但し…ろくな死に方は出来ないよ』
気紛れ自己満足もいいところ。贖罪後悔希望を押し付け自分勝手もいいところ。だがしかし、一人の少女が救われたのもまた事実。
こんな気持ちだったのだろうか。振り返る過去に想いを馳せ、そして願いは紡がれていく。




