第6話 魔物の姿
空に丸い月が浮かんでいる。
潮が引いて顕になった岩場には海藻が張り付いて、月の光を受けてぬらぬらと怪しく光っていた。
「おい、足元には気をつけろよ。海の中に落ちたらまず助からないぞ」
「わかってる。私は大丈夫だから、あなたはあなたの事を心配して」
バルックは「頼もしいことで」と苦笑を浮かべる。
「そろそろ入り口が見えてきたな。アンタ、フッサが飛び出しちまわないようにしっかり押さえて置いてくれよ」
『言われなくたって、誰がそんな馬鹿な真似……ムグッ』
「フッサ、喋っちゃダメ」
黒のローブの中に潜ませたフッサが反論しようとしたのを、エリンが手で抑える。
フッサはローブの中で鬼の形相を浮かべていたが、それ以上何かを言うことは無く大人しく黙り込んだ。
三人が向かっていたのは、干潮の時間しか入り口に入れない崖下の洞窟だった。
黒く淀んだ波の打ち付ける音を聞きながら、エリンはバルックの言葉を思い出していた。
※
「アクバルが紹介状を持ち込むとしたら、海楼洞の闇市だ」
「海楼洞?」
「ああ。潮が引いて岩場の道が現れないと入れない洞窟だが、そこで非合法な品を売買する闇市が開かれているんだ」
「じゃあ、私の紹介状もそこで売りに出されるかもしれない?」
「その通りだ。だが、表立って取り締まる訳にはいかねえ」
「どうして?」
「あそこは良い金稼ぎの場だ。憲兵が取り締まりに入ったなんて噂がたてば、俺だけならともかく他の仲間まで処分を受けかねん」
『法よりも金か。腐ってやがるな』
フッサが嘲るように言う。エリンは何も言わなかった。
「情けねえのはわかっているが、仲間の生活を犠牲にする訳にはいかねえんだ。幸いあそこじゃ客同士の揉め事は絶えないから、店主と客の喧嘩に見せかけてどうにかアクバルだけを連れ出すぞ」
そうして三人は潮が引く深夜を待ち、今まさに闇市が開かれる海楼洞へ乗り込む最中だった。
フッサを連れていると目立つから置いていった方が良いとバルックは言ったが、当然それにフッサが承諾するべくも無いのでエリンはローブを借りて服の中にフッサを隠すことにしたのだった。
※
岩を渡り終えると、普段は海で隔絶された岸辺の岸壁にぽっかりと穴が空いていた。
外には翼竜も一匹駐留している。なんの変哲もない洞窟に見えるそこは、岩壁に取り付けられた篝火に照らされて奥へ奥へと続いていた。
洞窟を少し進むと、天井の高く広い鍾乳洞に出た。商人たちは濡れた岩の地面にござを敷いて、怪しげな香や薬、果てには呪いの道具まで店先に並べている。
「おい、いたぞ」
エリンが物珍しそうに闇市を見渡していると、バルックが小声でエリンの脇腹を小突いた。
そこには商人相手に媚へつらった顔で揉み手をするアクバルの姿があった。その手には紛れもない、エリンが入国時に出した紹介状が握られている。
「ほら、見てくださいよこの“炎紋”! これこそギュネカバン最新の技術にして、これが本物の皇帝直筆の紹介状である証ですよ」
「そうは言われてもね。それほど重要なものならば、それを使うことで我々の身に危険が及ばないのかい?」
「も、もちろんですとも!」
「ならばその根拠を聞かせて欲しいものだが」
「こ、根拠って……。そんな意地悪言わないでくださいよ旦那、なんならもっとお安くしますから、ね?」
縋るようなアクバルの声は、周囲のざわめきに紛れてひどく哀れに響いていた。
しかし、商人達は話にならないというように顔を見合わせてカツカツとアクバルの前を去っていってしまう。
エリンとバルックは顔を見合わせて頷き合う。そして、足音を殺しながら項垂れるアクバルの背後へと近付いた。
「おい、アクバル」
バルックの低い声に、アクバルの肩が跳ね上がる。
恐る恐る振り返った顔は驚愕に染まり、隣に立つエリンの姿に気が付くとたちまち絶望へと塗り変わった。
「な、なんで、どうしてお前がここに……」
「落ち着け、悪いようにはしない。とりあえずここから出て話を聞かせてくれないか」
「い、嫌だ! そんな言葉が信じられるか!」
アクバルは手にした羊皮紙を懐へ隠すようにして、じりじりと後退りした。
「あの帝国皇帝と縁のある人間に喧嘩を売っちまったんだ。もう憲兵団にはいられねえ、漁師として海に戻ることもできねえ。これを売った金で、国を出るしか俺に未来はねえんだよ!」
叫び声が洞窟に反響する。
周囲の視線が一瞬集まったが、少し距離を空けただけで皆の関心はすぐ千々に散っていった。
アクバルは興奮でぜいぜいと肩を上下させながら、震える手で紹介状を握りしめる。
「私はあなたに報復するつもりも、陛下にこの件を告げるつもりもありません。ただそれを悪用されたら困るので、返して欲しいだけです」
「そ、そ、そんな言葉が信じられるか!」
アクバルが腰の剣に手をかける。
周囲のざわめきが激しくなった。アクバルはブルブルと震える手で剣を握り、血走った目をエリンに向ける。
「そうだ、お前さえいなくなっちまえば……俺は、俺の暮らしは守られるんだ……!」
「おい、馬鹿な真似はやめろ!」
エリンを庇うようにバルックが一歩前に出る。
その靴がバチャリと海水を踏み抜いた。
「あ?」
違和感に気が付いたバルックが足元を見る。
地面には海水が広がっていた。まだ水たまり程の浅さしかないが、洞窟の入り口から流れてくる海水でその水位はみるみる上がっていく。
「おい、ここには水が入って来ないんじゃなかったのか!」
「翼竜を呼べ、早く避難させろ!」
「ダメだ、道が狭すぎて翼竜じゃ入って来れねえ!」
よく聞けば周囲のざわめきはアクバルとエリンらの言い争いに対するものではなく、入り込んだ海水に対する動揺だった。
「どういうことだ? 万一海水が流れ込むにしたって、まだ潮の低い時間帯の筈だぞ」
『魔力が海に与えた影響かもしれねえな』
ローブの隙間からひょっこり首を出してフッサが言う。
「フッサ、隠れていてって……」
『これだけ騒ぎが起こってりゃ猫一匹で目立つも糞もねえだろ。それよりエリン、さっさとこの場を離れねえと人間どもは命に関わるぞ』
「どういうこと?」
『この辺の海は翼竜の糞で魔力に汚染されて、魔界の海と限りなく近い状態になっている可能性が高え。魔界の海だと、前兆もねえのに時々高波が起こってただろ』
エリンは頷く。
『原理はよく分かってねえが、魔力の溜まりすぎが原因の一つじゃねえかと言われてる。同じことがこの近くの海でも起こったんじゃねえのか』
「なるほど。でも、それならどうすればいいの?」
『泳いで出てくのは人間にゃリスクが高すぎる。これ以上水が流れないようにせき止められりゃいいんだが』
「おい、エリン!」
焦りの滲むバルックの呼びかけに、エリンはハッと顔を上げた。
「いきなり猫と話し出してどうしたんだよ。それよりここから早く逃げるぞ!」
「逃げるって、どうやって」
バルックは苦々しい顔で洞窟の奥を指差した。
「今から泳いで逃げるのは正直厳しい。とにかく少しでも高い位置の洞窟の奥に避難するしかねえだろ」
「でも、洞窟が行き止まりなら皆溺れてしまうんじゃないの?」
「…………」
バルックは口をつぐむ。その顔色は青く、額に汗が滲んでいた。
「ひ、ヒヒッ……こ、ここで死ぬんだ……俺も、お前らも全員……」
アクバルはうつろな目で笑いながら、洞窟の隅に立ち尽くしていた。
「……バルック、あなたは皆を連れて奥に逃げて。あとは私がなんとかする」
「何言ってんだ、お前もとっとと避難するぞ!」
「いいえ、その必要は無い」
エリンはフッサに目くばせをする。
「フッサ、この人たちをお願いできる?」
『……いいのか? こいつらが助かっても余計な噂が広まるかもしれねえぞ』
フッサの問いにエリンは「構わない」と頷いた。
フッサはため息を一つ吐くと、エリンのローブの中からヒョイと飛び出す。
「おい、危ね……っ⁉︎」
フッサを受け止めようと一歩前に出たバルックは、次の瞬間メキメキと音を立てて身体が巨大になっていくフッサの姿に言葉を失う。
わずか数秒のことだった。そこにいたのは小さな黒猫ではなく、熊ほどの体躯を持ち、金色の捕食者の目を煌めかせる巨大な猫の魔物だった。
「ヒッ、魔物……!」
「どこから現れたんだ⁉︎ 逃げ場なんかねえぞ!」
ざわめきが最高潮に達し、もはや悲鳴の輪唱となってパニックに陥りそうになる群衆。
そのうちの一人の男が逃げ出そうとして、海水に足を取られて前へと倒れ込んだ。
「うわっ……!」
そのまま汚れた海水へ顔面ごと突っ込む直前に、フッサが前足でひょいとその身体を拾い上げた。
そして自分の背中へと放り投げる。男の鼻先がお日様の香りのふわふわした毛並みに包まれる。
「なんだこれ……すげえモフモフ……」
「そ、そんなにいいものなのか……?」
「人間を助けてくれてたし、翼竜みたいに友好的な魔物なのかも」
抗いがたいふわふわの背中にしがみつく男の姿に、恐慌寸前だった人々の顔から恐怖が抜け落ちていく。
「この人数じゃちと大きさが足りねえか」
フッサは大きく伸びをした。ぐぐっと伸びた身体がそのままぐんぐんと伸びて、やがて太くしなやかな荒縄の如くその身体は長くなった。
「ほら、海水で歩けねえやつは乗れ」
フッサが顎をしゃくって背中に乗るように促す。
躊躇いながらも一人がその背中にまたがると、つられるように一人また一人とフッサの背に乗っていった。
「よし、これで全員だな」
立っているのがたくましい男衆ばかりになったことを確認して、フッサはエリンを振り返った。
「無茶はするんじゃねえぞ」
「うん。ありがとう」
エリンは微笑んだ。
フッサは目を細め、それ以上は何も言わずに洞窟の奥へと踵を返した。それに他の歩ける人間も続く。
その場に残ったのはいまだにブツブツと何かを呟いて立ち尽くすアクバルと、呆然とエリンを見つめるバルックだけだった。
「バルック、私に言いたいことはあるかもしれないけど……今は時間がない。アクバルさんを連れて避難して」
声をかけられたバルックはハッとして「……お前一人で大丈夫なのか?」と気遣わしげな声で尋ねた。
「大丈夫。私、すごく強いから」
そうエリンが言った瞬間、彼女の瞳から鮮烈な緑の炎が迸った。
「なっ……!」
めきめき、と骨肉の歪む音と共にエリンは少女の姿を変えていく。そして瞬きの間に、洞窟の入り口目いっぱいを塞いでしまう程の体躯の龍がそこに現れた。
その大きさは象二頭分はゆうにあるが、それでも本来のエリンの龍の姿からはほど遠かった。
突如現れた巨大な龍に、ずっと我を失っていたアクバルが「ば、ばけもの!」と叫んで泡を吹いて倒れた。バルックは慌ててそれを担ぎ起こす。
「これでわかったでしょ。早く彼を連れて逃げて」
「……わかった。でも、死ぬなよ」
バルックは少しの逡巡の後、力強く頷くともうふくらはぎまで上がってきた水を掻き分けながら力強く駆け出した。
「死ぬなよ、か」
残ったエリンはその体躯で水の流入を防ぎながら、ポツリと呟いた。
「人間から言われるのは、ずいぶん久しぶり」
龍の裂けた口元に微かな笑みが浮かぶ。
それは龍の姿でありながらも思い出を懐かしむ乙女のような、柔らかく穏やかな笑みだった。
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