第26話 時をむすぶ、おむすび
『おむすび姫 ―時をむすぶ、ひとつのおむすび―』
第26話 時をむすぶ、おむすび
「……結ちゃん!」
むすびは叫びながら目を覚ました。
自分の部屋。
夜明け前。
机。
カーテン。
スマートフォン。
いつもの世界。
「結ちゃん……」
胸に手を当てる。
何も聞こえない。
静か。
自分の心臓だけ。
「……帰ってきたんだ」
涙が落ちる。
枕元。
古びたかんざし。
むすびはゆっくり手を伸ばした。
指先が触れた瞬間。
パキッ。
「え?」
小さな音。
かんざしの飾りに。
ひびが入った。
そのまま。
一部が小さく欠ける。
光はない。
熱もない。
ただ。
古いかんざし。
役目を終えたように。
静かだった。
「もう……戻れないんだ」
むすびは壊れたかんざしを胸へ抱いた。
そして。
声を上げて泣いた。
しばらくして、部屋の戸が静かに開いた。
「むすび?」
ゆりちゃんだった。
むすびは涙を拭う間もなく、その姿へ抱きついた。
「ゆりちゃん……私、どうやって帰ってきたの?」
「覚えてないの?」
百合は驚いたように娘の顔を覗き込んだ。
「昨日、あのおじさんがあなたを背負って店まで連れてきてくれたのよ」
「……おじさんが?」
「急に倒れたって。呼びかけても目を覚まさないからって、ずぶ濡れのまま連れてきてくれたの」
百合は枕元のかんざしを見る。
「それも、ずっとあなたが握ってた」
むすびは壊れたかんざしを見つめた。
自分がおにぎりを渡した人が。
今度は、自分を家まで運んでくれた。
胸の奥が、また熱くなる。
「……ありがとう、おじさん」
届かないかもしれない小さな声で、むすびは呟いた。
*
数日後。
学校の図書室。
むすびは、あの地域史の本を開いていた。
前と同じ記述。
『天正元年、白瀬川周辺で小規模な衝突が起きたとする口伝が残る』
それだけ。
「もっと……ないの?」
司書の先生に聞く。
「榧ヶ嶺城について?」
「はい。もっと詳しい資料」
先生は少し考えた。
「学校にはこれくらいかな。でも市の郷土資料室なら、古い写しがあるかも」
その週末。
むすびは一代と百合に頼んで、郷土資料室へ連れて行ってもらった。
「急に歴史好きになったなあ」
一代が笑う。
「ちょっとね」
「受験勉強にもその情熱を」
百合が言う。
「ゆりちゃん、それは別問題」
「同じ問題です」
いつものやりとり。
むすびは笑う。
でも。
胸の奥にはずっと結がいる。
声は聞こえない。
それでも。
いる。
そんな気がした。
*
資料室。
古い写本。
地域の伝承をまとめた冊子。
藤代氏に関する系図の写し。
むすびの手が止まった。
『天正元年 榧谷・深守谷和議』
「……これ」
文字は現代語訳が添えられている。
読む。
『大旱魃の年、食をめぐり藤代氏と久瀬氏の間に争いが生じた』
心臓が速くなる。
『両勢は白瀬川にて対峙』
「うん……」
指が震える。
『この折、藤代景綱の娘・結姫が、城内に残る米・麦・粟を握り飯とし、敵味方の間へ運んだとの伝承が残る』
むすびの目から。
涙が落ちた。
「……あった」
本の上へ。
ぽたり。
「本当に……あったんだ」
続き。
『久瀬玄蕃はこれを受け、兵を退かせた』
『その後、両家は食糧を共同で管理し、翌春まで多数の領民を救ったと伝わる』
「結ちゃん……」
まだある。
むすびは読み進める。
和睦後。
結は。
深守谷との行き来を続けた。
孤児となった子どもの世話。
作物の分配。
翌年の種籾の確保。
水路の整備。
何年も。
何年も。
人が飢えないように。
動き続けた。
むすびの唇が震える。
「結ちゃん……」
涙。
「結ちゃん、あの後も……」
文字が滲む。
「ずっと頑張ったんだ……」
あの日。
別れ際。
『私、この先も頑張ります』
約束。
結は。
守った。
むすびはしばらく泣いた。
資料室の静かな机で。
声を出さずに。
*
そして。
もう一つ。
藤代家の系図。
『藤代景綱』
その娘。
『結』
むすびは指で追う。
結は後に藤代家を継いでいる。
その夫は婿として藤代姓を名乗った。
子。
孫。
何代。
何代。
途中で枝分かれしながらも、藤代の名は続いていた。
明治。
大正。
昭和。
そこで、資料室の系図はいったん途切れていた。
けれど。
最後に記された名前を見た瞬間。
「……え」
むすびの指が止まった。
見覚えがあった。
家の仏壇のそばにある、古い写真の裏で見た名前。
パパの曾祖父――むすびにとっての高祖父にあたる人だった。
「これ……うちの人だ」
その日の夜。
むすびは、資料室で写させてもらった系図を一代へ見せた。
「パパ。この人、知ってる?」
一代は紙を覗き込み、しばらくして目を丸くした。
「知っとるも何も、うちのひいじいちゃんじゃ」
「やっぱり……!」
一代は首をかしげながら、押し入れの奥から古い家の記録を出してきた。
一代の曾祖父から祖父へ。
祖父から父へ。
そして一代へ。
さらに一代から、むすびへ。
二つの記録は、ちゃんと一本につながった。
「私……」
声が震える。
「私って……」
涙がまた溢れる。
「結ちゃんの……子孫だったんだ……」
だから。
景綱がパパと同じ顔だった。
志乃の面影もまた、何百年もの血の流れのどこかで、ゆりちゃんへ残ったのかもしれない。
何百年。
数え切れない命。
その先に。
自分がいる。
「結ちゃん……」
むすびは自分の胸へ手を当てた。
もう返事はない。
でも。
「ちゃんと、つながってたんだね」
笑いながら泣いた。
*
もう一冊。
久瀬家の伝承。
そこには。
『玄蕃、白瀬の和議の折、藤代の姫が落としたる簪を拾う』
とあった。
むすびの呼吸が止まる。
『その簪、久瀬家に代々伝わり、命を結びし証として大切にされたという』
手元の壊れたかんざし。
未来でホームレスから自分へ。
過去で結が落とす。
玄蕃が拾う。
そして。
何百年も巡って。
また自分へ。
「だから……おじさんが持ってたんだ」
久瀬家に伝わったかんざし。
それを「うちに昔からあった」と言った、玄蕃と同じ顔の男。
答えは、もう十分すぎるほど胸に落ちていた。
むすびは笑った。
「ほんとに、時をむすんでたんだ」
*
翌朝。
小さなおにぎり屋。
炊きたての米の匂い。
「むすびー、塩どこじゃった?」
「パパの目の前!」
「あ、ほんまじゃ」
「朝から大丈夫?」
百合の呆れた声。
「ゆりちゃん、パパ今日も絶好調だね」
「絶不調の間違いでしょ」
「ひどい!」
むすびは笑った。
同じ朝。
同じ店。
同じ家族。
何も変わっていない。
でも。
全部が少し違って見える。
米を手に取る。
温かい。
一粒一粒。
あの時代なら。
どれほど大切だっただろう。
むすびは両手を濡らす。
塩をつける。
ご飯を取る。
優しく。
握る。
形を整える。
「結ちゃん」
誰にも聞こえないくらいの声。
「約束のやつ」
一つのおむすび。
真っ白。
むすびはそれを見つめた。
「結ちゃんも頑張ったんだもん」
壊れたかんざしは。
小さな箱にしまってある。
もう光らない。
でも。
必要ない。
「私も……頑張らなくっちゃ」
店の引き戸が開いた。
「こんにちはー」
お客さん。
むすびは顔を上げた。
いつもの。
あの笑顔。
「いらっしゃいませ!」
手には。
ひとつのおむすび。
小さな優しさが。
誰かへ渡っていく。
何百年先まで。
また。
誰かと誰かを。
むすぶために。
――完。




