第3話 星の紋章と、隠された父の過去
朝日が窓から差し込んできた。
レオン・アシュフォードは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。使い古された木製の机。窓辺に置かれた剣の手入れ道具。
いつもと変わらない、自分の部屋。
――のはずだった。
「……夢、だったのか?」
昨夜の出来事を思い出そうとすると、頭の奥がずきりと痛んだ。
銀色の髪を持つ女神。
夜空に浮かぶ、百の星。
そして、そのうちの一つが黒く染まっていく光景。
『あなたは、星に選ばれた者』
耳元で囁かれた声が、今も鮮明に残っていた。
夢にしては、あまりにも現実味がありすぎる。
レオンは首を振り、寝台から起き上がった。
「考えても仕方ないか……」
着替えを済ませ、部屋を出ようとした、そのときだった。
胸元に、かすかな熱を感じた。
「っ……!」
思わず服をめくる。
そこには、昨日まで存在しなかった模様が浮かび上がっていた。
円を描くように並んだ七つの星。その中心には、剣を思わせる細い紋様が刻まれている。
淡い銀色の光を放つそれは、まるで生き物のように明滅していた。
「なんだよ、これ……」
指先で触れた瞬間、視界が一変した。
無数の星が広がる暗闇。
その中央に、銀髪の女神が立っていた。
『目覚めましたね、レオン』
「昨日の……!」
『時間がありません。あなたに与えられた力は、まだほんの一端にすぎません』
「待てよ! 力ってなんだ? どうして俺なんだ!」
女神は悲しげに目を伏せた。
『百の世界を繋ぐ星々。その均衡が、今、崩れ始めています』
彼女が手をかざすと、暗闇の中に一つの星が浮かび上がった。
黒い靄に覆われ、光を失いつつある星。
『あの闇が広がれば、やがて星々は一つずつ消えていくでしょう』
「そんなこと、俺にどうしろっていうんだよ!」
『あなたには、星を繋ぐ力があります』
「だから、その力って……!」
『答えは、あなた自身が見つけなければなりません』
女神の姿が、徐々に遠ざかっていく。
『どうか忘れないで。あなたが守ろうとするものこそが、あなたの力になるのです』
「待て! まだ聞きたいことが――!」
そこで、視界が元に戻った。
レオンは壁に手をつき、荒い息を吐いた。
「……冗談だろ」
夢の中で聞いた言葉。
胸元に刻まれた紋章。
そして、今も残る奇妙な感覚。
これが偶然だとは、もう思えなかった。
そのとき、階下から母の声が響いた。
「レオン! 朝ご飯が冷めちゃうわよ!」
「は、はい!」
慌てて服を整え、階段を駆け下りる。
食卓では、父のガルドが焼きたてのパンをちぎっていた。
「おう、遅かったな。昨日の大会で疲れたか?」
「まあ、そんなところ」
レオンは曖昧に笑った。
父は元冒険者で、今は村で鍛冶屋を営んでいる。厳しくも頼れる父親であり、剣の師でもあった。
母のミリアは、そんな二人を見ながら呆れたように笑う。
「ガルド、レオンをからかうのはそのくらいにして。今日はエリシアちゃんが来るんでしょう?」
「えっ?」
レオンはパンを喉に詰まらせかけた。
「昨日、剣術大会が終わったら話したいことがあるって言っていたじゃない」
「あ、ああ……そうだったな」
幼馴染のエリシア・ヴァレンティア。
昨日の大会でも、誰よりも近くで自分を見ていた少女だ。
彼女には、何かと隠し事ができない。
昨夜の夢のことも、胸元の紋章のことも。
話すべきなのだろうか。
そんなことを考えていると、父の手がぴたりと止まった。
「……レオン。少し、こっちを向け」
「え?」
ガルドの視線は、レオンの胸元に注がれていた。
「その服の下……何かあるのか?」
心臓が跳ねた。
「な、何もないよ」
「嘘をつくな」
普段は豪快な父の声が、低く沈んだ。
レオンは思わず口を閉じた。
ガルドはしばらく息子を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……見せてみろ」
逃げられない。
レオンは観念して服の襟元を開いた。
銀色の紋章が、朝の光を受けて淡く輝いていた。
その瞬間。
ガルドの顔から、血の気が引いた。
「まさか……」
震える手が、紋章に伸びかけて止まる。
「父さん?」
「どうして、お前に……」
その声には、驚きだけではなく、恐怖に近い感情が混じっていた。
「知ってるのか? この紋章」
ガルドは答えなかった。
代わりに、食卓の向こうにいるミリアへ視線を向ける。
彼女もまた、夫の表情を見て息を呑んでいた。
「あなた……まさか、あのときの……」
「ミリア、今は何も言うな」
ガルドは立ち上がった。
「レオン。話がある。だが、その前に確認しなければならないことがある」
「確認って?」
「お前、昨夜、夢を見なかったか?」
レオンは息を呑んだ。
なぜ、それを知っている。
父の目は、答えを知っている者の目だった。
「……銀色の髪の女の人が出てきた」
沈黙が落ちた。
ガルドは目を閉じ、長い時間をかけて息を吐いた。
「そうか。とうとう始まったんだな……」
「何が始まったんだよ!」
思わず声が大きくなった。
「父さんは何を知ってる? その紋章は何なんだ? あの女神は誰なんだよ!」
ガルドは息子の肩に手を置いた。
「すまない。いつか話さなければならないと思っていた」
「いつかって、いつだよ!」
「お前が十七歳になる日までだ」
レオンは言葉を失った。
十七歳。
昨日、自分が迎えた誕生日。
偶然ではない。
父はずっと、この日が来ることを知っていたのだ。
「父さん……俺に何が起きてるんだ?」
ガルドは苦しげに目を伏せた。
「お前の母さんと俺は、ただの村人じゃない。少なくとも、昔はそうではなかった」
「……え?」
「俺はかつて、星の紋章を持つ者たちと旅をしていた。世界の境界を越え、各地に起きる異変を調べる者たちだ」
レオンは父を見つめた。
ただの鍛冶屋だと思っていた父。
剣の腕は確かだったが、それは冒険者時代の経験によるものだと聞かされていた。
まさか、そんな秘密があったなんて。
「じゃあ、俺の紋章も……?」
「ああ。だが、お前のものは俺たちが知っている紋章とは違う」
ガルドの表情が険しくなる。
「七つの星を持つ紋章……伝承にしか残っていないはずのものだ」
「伝承?」
「それを持つ者は、失われた星々を繋ぐ鍵になると言われている」
その言葉を聞いた瞬間、レオンの胸元が熱を帯びた。
紋章が強く輝く。
「うわっ……!」
食卓の皿が小さく震え、窓ガラスがかたかたと音を立てた。
次の瞬間、レオンの脳裏に見知らぬ光景が流れ込んできた。
森。
村の外れにある古い街道。
そして、木々の間から這い出す、黒い靄に覆われた獣。
その目は赤く光り、身体の輪郭は煙のように揺らいでいた。
獣が唸る。
その背後で、何かが割れるような音がした。
レオンは膝をついた。
「はあっ……はあっ……今のは……」
ガルドが叫ぶ。
「レオン! 何が見えた!」
「森だ……村の外の森に、何かいる!」
その瞬間、遠くから鐘の音が響いた。
村の警鐘。
一度、二度、三度。
平穏な日常を破る、緊急事態を知らせる音だった。
「魔物だ! 森の街道に魔物が出たぞ!」
外から村人の叫び声が聞こえる。
ガルドは壁に掛けてあった剣を手に取った。
それは、普段は飾りのように置かれていた古い剣だった。
「父さん、どこへ……!」
「村を守りに行く」
「俺も行く!」
「駄目だ!」
父の一喝に、レオンの足が止まった。
しかし、ガルドはすぐに声を落とした。
「……いや。もう、お前を隠しておくことはできないのかもしれないな」
父はレオンを見つめた。
「よく聞け。お前の力は、まだ目覚めたばかりだ。無理に使えば、何が起こるかわからない」
「でも、村のみんなが危ないんだろ!」
「だからこそ、力に呑まれるな。自分が何を守りたいのか、それだけは忘れるな」
レオンは拳を握った。
怖くないと言えば嘘になる。
自分は剣術大会で優勝したばかりの、ただの村の少年だ。
世界を救うだとか、星を繋ぐだとか。
そんな大それたことを背負える自信などない。
それでも。
この村には、父がいる。
母がいる。
幼い頃から一緒に過ごしてきた人々がいる。
そして――。
「レオン!」
開け放たれた扉の向こうから、聞き慣れた声が響いた。
エリシアだった。
息を切らし、いつもの落ち着いた表情を崩している。
「森の方で変な魔物が出たって! おじさんたちが向かってるけど、街道にまだ人が残ってるの!」
「エリシア……」
彼女はレオンの顔を見て、何かを察したように眉を寄せた。
「あなた、何か知ってるの?」
レオンは一瞬、迷った。
夢のことも、紋章のことも、父の秘密も。
すべてを話せば、彼女を巻き込むことになるかもしれない。
だが、もう隠している時間はなかった。
「エリシア。信じられない話かもしれないけど、聞いてくれ」
レオンは胸元の紋章を見せた。
「俺、昨夜から変なんだ。夢の中で女神に会って……その人が言ったんだ。世界に何かが起きてるって」
エリシアは目を見開いた。
「女神……?」
「俺にも、まだ何もわからない。でも、森で何かが起きてることはわかるんだ」
エリシアは数秒黙っていた。
そして、腰に差した剣の柄を握る。
「……わかった」
「え?」
「全部理解できたわけじゃない。でも、あなたが嘘をついていないことくらいわかる」
彼女は真っ直ぐにレオンを見た。
「一人で行かせないから」
「エリシア、危険だ!」
「それはあなたも同じでしょ!」
いつもの彼女らしい、強い声だった。
レオンは思わず苦笑した。
「……そうだったな」
ガルドは二人を見つめ、やがて諦めたように首を振った。
「わかった。ただし、俺の指示には必ず従え。少しでも危険だと思ったら、すぐに退くんだ」
「わかった、父さん」
レオンは剣を手に取った。
昨日まで、それはただの武器だった。
剣術大会で勝つためのもの。
強くなるためのもの。
けれど今は違う。
自分が守りたいもののために、握る剣だ。
胸元の紋章が、再び銀色に輝いた。
まるで、その決意に応えるかのように。
レオンは扉の向こうへ駆け出した。
その背中を見送りながら、ガルドは誰にも聞こえない声で呟いた。
「……頼む。今度こそ、間に合ってくれ」
彼の脳裏に、遠い昔の光景が蘇る。
燃え落ちる街。
空を覆い尽くす黒い星。
そして、仲間たちが命を懸けて守ろうとした、一人の少年。
ガルドは剣の柄を強く握り締めた。
あのとき守れなかったものを、今度こそ失うわけにはいかない。
一方、村の外れ。
森へと続く街道では、黒い靄をまとった獣が、ゆっくりと頭をもたげていた。
その赤い瞳が、走ってくるレオンを捉える。
獣の口元が、不気味に歪んだ。
まるで、彼が来ることを待っていたかのように。
そして、レオンの胸元の紋章が、かつてないほど強い光を放った。
――星の物語が、動き始めた。




