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聖女エレノアは、静かに時間をかけた。
急がなかった。
レイは単純だが、女王サフィールの縄張り意識は強い。下手に露骨な接近をすれば、逆に警戒される。
だから。
エレノアは少しずつ、丁寧に距離を縮めていった。
「レイ様、お茶をどうぞ」
「のだっ♡」
「今日は北方蜂蜜もありますよ」
「のだぁあああっ♡」
レイは本当に分かりやすかった。
美味いもの。
優しい態度。
そして昔を思い出させる物。
それだけで、すぐ機嫌が良くなる。
エレノアはそれを理解していた。
だからこそ。
余計に胸が重かった。
彼は悪人ではない。
単純で。
感情的で。
危険過ぎるだけだ。
それでも。
殺さなければならない。
エレノアはそう判断していた。
ある日には、レイに獣人族の古い民話を聞かせた。
「昔、獣人族は巨大な魚を素手で取っていたそうですね」
「のだっ♡」
レイは超嬉しそうだった。
「そうなのだぁ! 魚叩きまくるのだっ♡」
「楽しそうですね」
「楽しいのだっ♡」
また別の日。
エレノアはレイに、北方山岳地帯でしか採れない果実酒を渡した。
「のだぁっ♡」
「獣人族が好きだった味に近いそうですよ」
「うまぁぁぁいのだぁ!!」
レイは尻尾を振りながら喜んでいた。
完全に懐き始めていた。
最近では。
「エレノアぁっ♡」
と普通に名前で呼ぶ。
ザルハディア側の兵士たちは胃を痛めていた。
「まずいぞ……」
「最近レイ様、普通に懐いてる」
「女王陛下がまだ静かなの逆に怖い」
一方。
サフィールは何も言わなかった。
だが。
完全に見ていた。
レイがエレノアに笑う回数。
渡された物。
会話時間。
全部。
女王は静かに観察している。
ただ。
今のところ。
レイが最終的に自分の寝室へ戻ってくることだけは変わっていなかった。
「のだっ♡」
「……また蜂蜜もらったの?」
「美味しかったのだっ♡」
「そう」
サフィールは微笑む。
だが。
瞳だけは冷静だった。
そして。
エレノア側も理解していた。
時間がない。
女王は気づいている。
だから。
もう終わらせるしかない。
その日。
王宮北側。
古い神殿跡地近くの庭園には、人がほとんどいなかった。
中央には深い池がある。
底が見えないほど深い。
昔、神殿儀式にも使われていた場所だ。
そして。
池の前で、エレノアは静かに震えていた。
「…………」
白い指先が冷えている。
呼吸が浅い。
だが。
決意は揺らがなかった。
毒は使えない。
ザルハディア王宮は女王の支配下だ。
食事。
厨房。
給仕。
全部管理されている。
しかもレイは異常に頑丈だ。
普通の毒では意味がない可能性が高い。
食べ過ぎも無理。
勝手に量を盛れば、すぐ発覚する。
つまり。
確実に殺すには。
直接やるしかない。
エレノアは静かに池を見る。
深い。
非常に。
古代神殿時代の構造上、中央には強い水流もある。
普通の人間なら、落ちればまず助からない。
そして。
レイ。
あの怪物。
強い。
だが。
獣人族は感情で動く。
特に。
信頼対象には無防備。
だから。
エレノアは、自分が飛び込めばレイも迷わず来ると確信していた。
そして。
一緒に沈む。
それしかなかった。
彼女は自分の手を握る。
少し震えている。
怖い。
当然だ。
死ぬのだから。
だが。
エレノアは、自分の代わりに誰かを使う気はなかった。
聖騎士。
修道女。
従者。
誰かに命じれば可能かもしれない。
だが。
それは嫌だった。
自分で決めたことなら、自分でやる。
少なくとも、それくらいは守りたかった。
その時。
「のだっ♡」
背後から声。
エレノアは静かに振り向いた。
レイだった。
超笑顔。
尻尾ぶんぶん。
「エレノアぁっ♡」
「……レイ様」
「何してるのだぁ?」
「少し考え事を」
「難しい顔してるのだぁ?」
レイは近づいてくる。
何も疑っていない。
完全に無防備。
エレノアはそれを見て、胸が少し痛んだ。
だが。
もう決めている。
「レイ様」
「のだぁ?」
「もし、私が死んだら」
「のだぁ?」
「少しは悲しんでくれますか?」
レイはきょとんとした。
数秒。
本気で考える。
そして。
「嫌なのだぁ」
「…………」
「死ぬななのだぁ」
即答だった。
エレノアは少しだけ目を閉じた。
優しい。
だからこそ。
危険だ。
彼女はゆっくり池へ視線を向ける。
水面が静かに揺れている。
あと少し。
あと一歩。
飛び込めば終わる。
その瞬間。
レイが不思議そうに首を傾げた。
「のだぁ?」
「エレノア、なんか変なのだぁ?」
エレノアは微笑んだ。
聖女らしい、綺麗な笑顔だった。
「……少しだけ、怖いんです」
「のだぁ?」
レイはさらに近づいてくる。
完全に警戒ゼロ。
エレノアは理解していた。
今なら。
やれる。




