35
王宮北側の古い神殿庭園は、不気味なほど静かだった。
風も弱い。
深い池の水面だけが、ゆっくり揺れている。
エレノアは池を見つめながら、小さく震えていた。
怖い。
当然だ。
だが。
もう戻れない。
背後では、レイが不思議そうに首を傾げている。
「のだぁ?」
銀髪。
超笑顔。
完全に無防備。
エレノアはゆっくり振り返った。
「……レイ様」
「のだっ♡」
「この池の奥には、とても美味しいものがあるそうですよ」
一瞬。
レイの目が輝いた。
「のだぁっ!?」
単純だった。
非常に。
「美味しいものなのだぁ!?」
「ええ」
「本当なのだぁ!?」
「昔の神官たちが隠していた珍味だそうです」
その瞬間。
レイの尻尾が爆発的に振られ始める。
「のだぁああああっ♡」
完全に興奮していた。
エレノアは胸が痛んだ。
だが。
止まらない。
止めない。
「私、今から探しに行こうと思うんです」
「のだぁ!?」
レイは目を見開く。
「ずるいのだぁ!!」
エレノアは微笑んだ。
綺麗な笑顔だった。
「では、失礼しますね」
そして。
静かに。
池へ飛び込んだ。
白い身体が水面へ沈む。
その瞬間。
「のだぁあああああ!!」
爆音。
レイだった。
「美味しいものは全部吾輩のものなのだぁあああ!!」
ドボォォォォン!!!
巨大な水柱。
水面が大きく揺れる。
そして。
冷たい水の中。
エレノアは静かに目を開けた。
深い。
暗い。
だが。
すぐ目の前へ、レイがもの凄い勢いで泳いできた。
「のだぁっ♡」
本当に来た。
一切疑わず。
何の警戒もなく。
ただ“美味しいもの”という言葉だけで。
エレノアは胸が締め付けられる。
だが。
迷わなかった。
彼女はレイへ腕を回した。
「のだぁ?」
レイがきょとんとする。
次の瞬間。
エレノアはそのままレイへ深く口づけした。
「っ――」
水中。
息が奪われる。
レイは目を見開いた。
エレノアは必死に抱きつく。
離さない。
絶対に。
沈む。
深く。
もっと深く。
水流が二人を引きずっていく。
レイは最初、混乱していた。
「の、だぁ……!?」
だが。
次第に苦しくなっていく。
息がない。
水が重い。
それでも。
エレノアは離れなかった。
白い指が、レイの背へ食い込む。
必死だった。
泣きそうな顔で。
それでも。
離さない。
レイの動きが少しずつ弱くなっていく。
そして。
その瞬間。
レイは気づいた。
「…………」
エレノア。
泣いている。
水の中なのに分かった。
苦しそうで。
悲しそうで。
なのに。
決意だけは消えていない。
レイはぼんやり理解した。
(……あぁ)
(殺そうとしてるのだぁ)
やっと。
やっと理解した。
だが。
怒りはなかった。
ただ。
少しだけ悲しかった。
「…………」
水の底。
暗闇。
沈みながら。
レイは最後に、ぼんやり考える。
(陛下、怒るのだぁ)
そんなことだった。
エレノアはレイを抱き締めたまま、静かに目を閉じる。
もう戻れない。
聖王国のため。
世界のため。
そう思っていた。
だが。
最後の最後で。
レイのことを、少し好きになってしまっていた。
だからこそ。
苦しかった。
深い池の底。
二人はそのまま、静かに沈んでいく。
水面だけが、いつまでも揺れていた。




