第94話 夏木立の教室と、噛み合わない証言 3
次の休み時間になっても、遠山はさっきとほとんど同じ場所にいた。
違うのは、机の上が教科書からペットボトルに変わったくらいだ。
窓の外では、雨上がりの木々が六月の光を返している。晴れてはいるが、空気はまだ重い。閉め切った教室には人の熱がこもっていて、窓際から少し離れた俺の席でも、汗と制汗剤が混ざった匂いが薄く漂っていた。
「今ならいけそうじゃない?」
柚木が遠山を見る。
「そうだな」
授業を一つ挟んだおかげで、さっき倉田に話を聞いていた時の空気も残っていない。
別に残す必要もない。
昨日濡れた資料なんて、クラスの大半にとってはもう終わった話だ。
遠山のところまで行くと、向こうが先に気づいた。
「何、神崎。次は俺?」
「分かってるなら早いな」
「倉田に聞いてたじゃん」
遠山は笑って、ペットボトルを机へ置いた。
「昨日の窓のこと、ちょっと確認していい?」
柚木が言う。
「おう。何?」
「遠山、雨止んだあと窓開けたって言ってただろ」
「ああ、開けた」
迷いがない。
だから正しい、とはならない。
人間の記憶なんて、昨日のことでも普通にずれる。俺が欲しいのは反応じゃなく、遠山が覚えている順番だ。
「どの雨のあとだ?」
「最初のやつ」
「弱かった方?」
柚木が確認する。
「そう。それ止んだあと」
「倉田が窓閉めたあと?」
「たぶんな。っていうか、閉まってたから俺が開けたんだし」
遠山は窓の方を指した。
「雨止んだのにずっと閉まってて、教室クソ蒸してたんだよ。だからちょっと開けた」
「どれくらい?」
「窓?」
「ああ」
「普通にこれくらいじゃね?」
遠山が両手で幅を作る。
大きく開け放ったというほどじゃない。
「時間は?」
「知らん」
即答だった。
「時計見て開けたわけじゃねえし」
「まあ、そうだよな」
柚木が苦笑する。
「昨日の窓、何時何分に開けましたかって聞かれても普通覚えてないって」
「だろ?」
遠山はそっちへ頷いた。
「雨止んで、暑かったから開けた。それだけ」
後から見れば、資料を濡らす原因にはなり得る。
でも、遠山に特別な意味はない。
雨が止んで蒸したから開けた。それだけだ。
「じゃあ、開けた時には雨は降ってなかったんだな」
「降ってたら開けねえよ」
「遠山ならやりかねないかと思って」
「柚木、俺のこと何だと思ってんの?」
「サッカー部」
「関係ある?」
柚木が笑う。
遠山も笑っていた。
少なくとも、昨日窓を開けたことを責任問題として扱っている様子はない。
俺も扱うつもりはなかった。
これで、一度目の雨が止んだあとに遠山が窓を開けたところまではつながった。
「ありがと。もう大丈夫」
柚木が言うと、遠山が眉を上げた。
「それだけ?」
「それだけ」
「もっと名探偵っぽい質問しないの?」
「誰が名探偵だ」
「神崎」
「違う」
「即答じゃん」
面倒なので戻ることにした。
背後で柚木が笑っている。
次の授業を挟み、昼休みになった。残るのは、遠山が開けた窓が二度目の雨の前にどうなったかだ。教室では弁当の蓋が開き、人の動きがまた散り始めていた。
澄も少し離れたところで、友達と机を囲んでいる。
俺が鞄から昼飯を出していると、柚木が教室の反対側で誰かと話しているのが見えた。
小坂だった。
二人とも普通に昼飯を広げている。
俺がわざわざ呼び出すより、そのままの方がいい。
少しして、柚木がこちらを見た。
目が合う。
軽く手招きされた。
仕方なく席を立つ。
「ちょうど昨日の話してた」
「何で?」
「窓の話聞きたいんでしょ?」
柚木が言う。
「それで優花、昨日窓閉めたの覚えてるって」
「うん」
小坂は箸を持ったまま頷いた。
特に構えた様子はない。
「昨日の、二回目の雨の前だよね?」
「そこを確認したい」
「何を?」
「閉めたのが、雨が降り出す前だったか、あとだったか」
「ああ」
小坂は少しだけ視線を上へ向けた。
昨日のことを思い返しているらしい。
「前だと思う」
「思う?」
「うん。空がまた暗くなってきてたから、降りそうだなって思って閉めた」
「もう降ってたわけじゃない?」
「まだだったよ」
小坂はそう答えてから、少し間を置いた。
「少なくとも、降ってきたから慌てて閉めたとかじゃない」
「その時、窓は開いてた?」
「開いてた。だから閉めたんだけど」
さっきの倉田と似た答えに、思わず黙る。
聞き方が悪い。
「それ、神崎、さっき倉田にも同じこと聞いてなかった?」
柚木が笑う。
「確認だ」
「便利だね、それ」
否定はしない。
「遠山が開けた窓かどうかは分かるか?」
「そこまでは知らない」
小坂は首を横に振った。
「私が見た時に開いてたから閉めただけ。誰が開けたとか考えてなかったし」
「それでいい」
また、時計の数字は出ない。
でも順番は出た。
一度目の雨が止んだあと遠山が開け、空が崩れる前に小坂が閉める。そのあと二度目の強い雨が来る。
「じゃあ……」
柚木の声が少し遅くなった。
俺も同じところで止まっていた。
三人の話は時間順につながっている。問題は、そのあとだった。
誰の話も、まだ崩れていない。
「……神崎?」
柚木に呼ばれて顔を上げる。
「今の順番で合ってる?」
「ああ」
「じゃあ二回目の雨が降った時って、窓……」
「閉まってる」
俺が答えると、小坂が箸を止めた。
「え?」
視線が俺と柚木の間を往復する。
「でも、資料って二回目の雨のあとに濡れてたんだよね?」
「見つかったのはな」
「じゃあ……なんで濡れたの?」
その疑問はもっともだった。
二度目の雨が窓から吹き込み、資料を濡らした。
そう考えるなら、その時に窓は開いていなければならない。
でも、小坂の話では雨が来る前に閉まっている。
しかも、昨日見た窓枠や床は、あの強い雨がまともに吹き込んだにしては濡れ方が弱かった。
「そこが、今合ってない」
「誰か時間勘違いしてるとか?」
小坂が聞く。
「その可能性はある」
三人が話しているのは、秒単位の記録じゃない。昨日の普通の記憶だ。多少のずれがあってもおかしくない。
「でも、誰が?」
柚木が言った。
俺は答えられなかった。
倉田、遠山、小坂――誰か一人の記憶が違っていたと考えれば、別の順番にはできる。問題は、そう考えていい理由が一つもないことだ。
「分からない」
「神崎でも?」
「俺だからって他人の昨日の記憶が正確かどうかまで分かるわけじゃない」
「そりゃそうか」
小坂はあっさり頷いた。
そのまま一口食べてから、もう一度だけ俺を見る。
「でも、今の話だと変なんだよね?」
「ああ」
「じゃあ、まだ何か足りないんじゃない?」
難しい推理でも何でもない。
だからこそ、その通りだった。
「かもな」
柚木が小坂へ笑う。
「ありがと。ご飯中にごめん」
「別にいいよ。昨日の話でしょ?」
それで小坂は普通に昼飯へ戻った。
俺たちも自分の席へ戻る。
「三人とも聞けたね」
「ああ」
「で、前より分かった?」
椅子を引きながら、少し考える。
「順番は」
「答えは?」
「遠くなった気がする」
「それ分かる」
柚木が苦笑した。
三人の順番は分かった。それでも二度目の雨を原因にすると、誰かの記憶を変えなければならない。今の俺には、その誰かを選ぶ理由がなかった。
「もうちょい、昨日のこと覚えてる人いないか見てみる?」
「そうだな」
「聞き込み大会にはしないけど」
「それでいい」
選べないなら、まだ選ばない。足りないものがあるなら、先にそっちを探す。
昼休みの教室では、もう昨日の雨なんてなかったみたいに笑い声が続いている。
その普通の時間の中に、まだ拾えていない何かが残っているかもしれなかった。




