第95話 夏木立の教室と、噛み合わない証言 4
昼休みも後半になると、昨日の資料の話は教室からほとんど消えていた。
机を寄せていた連中は別の話題で笑っているし、食べ終わったやつはスマホを見たり、次の授業の準備をしたりしている。
俺も昼飯を片づけて、机の中から次の教科書を出した。
澄は友達と何か話しながら、向こうの席でノートを開いている。
柚木は教室の後ろにいた。
女子二人と話していて、時々笑い声が聞こえる。昨日の資料を調べて回っているようには見えないし、俺も気にせず教科書をめくった。
昨日濡れた紙のために、今日の学校生活まで全部止める必要はない。
答えが出ないなら、出ないなりに授業は始まる。
やがて柚木の方の話も終わったらしい。
予鈴が鳴る少し前に自分の席へ戻ってきた柚木が、椅子を引きながら俺を見た。
「神崎」
「何だ」
「ひとつだけ、ちょっと曖昧なんだけど」
その前置きで、教科書へ落としていた視線を上げる。
「何か出たのか?」
「出たっていうほどじゃない。ほんとに、覚えてるかもってくらい」
柚木はそう言ってから、さっきまで話していた女子の方をちらりと見た。
「まだ何か普通に覚えてることあるかもって思って、昨日の雨の話、ちょっと混ぜてみたんだよ」
「聞き込みじゃなかったんだな」
「そんなガチでやったら引かれるでしょ」
「それはそうだ」
「で、二回目の雨すごかったよねって話してたら、資料の話にもなってさ」
柚木が少し声を落とす。
「一人が、二回目の雨が降る前に、あの資料の一番上の紙、端がちょっと浮いてた気がするって」
紙の端。
昨日見た、上側と窓側を中心に濡れていた束が頭に浮かぶ。
「いつ見た?」
「そこが曖昧」
柚木はすぐに答えた。
「二回目の雨より前なのは、たぶんそうって。でも本人も『見た気がする』くらい。ちゃんと資料見てたわけじゃないし、紙の端だったかも自信ないって」
「なるほど」
「だから、証言っていうより記憶?」
「それくらいでいい」
「いいんだ?」
「確度が分かってるならな」
曖昧だから消す必要もない。曖昧なまま残しておけばいい。
「でもこれ、ちょっと一回目の雨っぽくない?」
柚木が声を落とした。
「紙が濡れて、端が反ったとか」
「可能性はある」
「やっぱり?」
「あるだけだ」
「あ、そこ止めるんだ」
「湿気だけでも紙は反る。窓が開いてたなら風で端が浮いたかもしれないし、誰かが触った可能性もある。最初から束が綺麗に揃ってなかっただけかもしれない」
「……そう言われると、急に弱くなるね」
「元から弱い情報だ」
「夢がないなあ」
「推理に夢を求めるな」
柚木が笑った。
二度目の雨より前から資料が変わっていた可能性は残る。それだけだ。
「じゃあ、覚えとくくらい?」
「ああ。それで十分だ」
「了解」
ちょうどそこで教師が入ってきた。
柚木が前を向き、俺も教科書を開く。
昨日の紙の端は、そこでいったん頭から追い出した。
授業中まで考え続けても、曖昧な記憶の精度が上がるわけじゃない。
黒板に文字が増えて、ページをめくる音が続く。
窓の外では、雨に洗われた木の葉が明るい日差しを返していた。
昨日とは違って、今日は窓を気にする理由もない。
授業が終わった。
教師が出ていくと同時に、教室の空気が緩む。
俺がノートを閉じたところで、斜め前から柚木が振り返った。
「ねえ、神崎」
「今度は何だ」
「昨日の時間って、もうちょい絞れない?」
「時間?」
「何時何分とかじゃなくてさ。授業とか昼休みとか。そのくらいなら分かるじゃん」
少し考える。
分単位は無理でも、昼休みや授業という大きな区切りなら追える。
一度目の雨は昼休み。倉田、遠山、小坂の順で窓が動き、二度目の強い雨が来る。資料が見つかったのは、その雨が弱くなったあとだ。
発見した時刻と、濡れた時刻は同じじゃない。前から濡れていたものを、その時初めて見つけただけでも成立する。
「……時間だけ見ると、別に誰も無理してないね」
柚木が言った。
「そうだな」
誰か一人だけ、その時間には教室にいなかったとか、窓を触れなかったとか、そんな分かりやすい破綻もない。
「何か分かるかと思ったのに」
「分かっただろ」
「何が?」
「時間だけじゃ切れない」
「それ、困る方の『分かった』じゃない?」
「そうとも言う」
柚木が机へ頬杖をついた。
「紙の端の話も増えたのにね」
「ああ」
「でも誰が間違ってるかは分かんない」
「そもそも、誰かが間違ってるとはまだ決まってない」
「二回目の雨で濡れたなら、どっかはズレてるんでしょ?」
「その前提ならな」
口にしてから、そこで止める。
一度目の雨で濡れた可能性は、前より高く見える。二度目の雨より前から紙が変化していたかもしれないし、昨日見た窓枠や床も、あの強い雨がまともに吹き込んだにしては濡れ方が弱かった。
ただ、紙の端の記憶は曖昧だ。一度目の雨は短く、二度目の雨は強い。資料が見つかったのも二度目の雨のすぐあとだった。
どちらかに都合のいいものだけ選べば、それらしい答えはいくらでも作れる。
それをやるつもりはない。
「じゃあ次、どうする?」
柚木が聞く。
足りなかった情報は、かなり埋まってきた。
それでも、倉田、遠山、小坂のうち、誰か一人だけを間違いとする理由はまだない。
「一回、三人を別々に考えてみる」
「倉田なら、遠山なら、優花なら、って?」
「ああ」
誰か一人の記憶をずらした時、今ある話が本当に通るのか。
それぞれ試せば、少なくともどこまで説明できるかは分かる。
次の授業の予鈴が鳴った。
柚木が前を向く。
俺もノートを開いた。
三人の話は、時間の上ではまだ全部残っている。
なら次は、一人ずつ外した時に何が残るのかを見るしかなかった。




