第92話 夏木立の教室と、噛み合わない証言 1
翌朝、教室から見える木々には昨日の雨がまだ残っていた。
葉の先から水滴が落ち、校庭の端には色の濃くなった土が見える。湿気まで消えたわけじゃないが、昨日みたいに雨音と人の匂いが一緒に押し寄せてくる感じはない。
それだけで、鼻はだいぶ楽だった。
教室の中も普通だった。朝の小テストがどうだとか、次の授業で当てられそうだとか、昨日の雨より今日の話の方が多い。
濡れた資料の話をしているやつは、少なくとも俺の周りにはいなかった。
紙は刷り直し済みで、教室ではもう終わった話になっている。俺が気にしているのは、三人のうち誰かを根拠もなく「記憶違い」にして片づけることだけだった。
「おはよ、神崎」
「おはよう」
鞄を机の横へ掛けた柚木が、そのまま俺の机へ手をついた。
「昨日の続き、今日やるんだよね?」
「ああ」
「もう誰も気にしてないけど」
「それは見れば分かる」
「だよね」
柚木は教室を見回して笑った。
遠山は男子数人と話している。小坂も友達と何か話していて、倉田は席で教科書を読んでいた。
三人とも昨日と変わらない。
澄も少し離れた席で友達と話している。
資料だけが消えて、教室はもう元に戻っていた。
「じゃ、休み時間に」
「そうするか」
朝から三人を捕まえるような話でもない。
俺たちもそのまま一時間目を受けた。
次の休み時間。
柚木と一緒に窓際へ行く。
昨日、資料が置かれていた空き机には、今は別の教科書が何冊か積まれていた。窓枠も床も乾いている。
もちろん、今の状態を見ても昨日の雨のことは分からない。
「このへんだったよね」
柚木が空き机の窓側を指す。
「ああ。窓に近い側」
「紙、上だけだった」
「数枚だな」
昨日の光景を頭の中へ戻す。
資料の束。上の数枚。特に窓側の端が波打っていた。
空き机を使おうとしていた男子が一枚めくった時、下の紙と軽く貼りついて、湿った音がした。
束全部が水を被ったわけじゃない。
「下までびしょびしょって感じじゃなかったよね」
「そこは俺も同じだ」
「じゃあ、それは合ってる」
柚木は指先で机の端を軽く叩いた。
今ある机を証拠にするんじゃなく、昨日それぞれが見たものを照らし合わせる。
少なくとも、資料の濡れ方については記憶が一致していた。
「で、窓の下」
俺は視線を床へ落とす。
昨日、資料から少し視線をずらした時に見たもの。
窓枠の内側には水滴が残り、床にも細かな水滴は散っていた。ただ、水たまりはなかった。
「柚木、床ってどれくらい濡れてたか覚えてるか」
「んー……」
柚木は少し考えた。
「びちゃびちゃではなかった。そこは覚えてる。紙の方が先に気になったから、細かいとこまでは見てないけど」
「それでいい」
「分かんないとこ盛らない感じ?」
「見てないならな」
「了解」
強い雨にしては、周りの濡れ方が弱い。
そこまでは昨日も見ていた。
窓をすぐ閉めたならおかしくない。紙だけが先に雨を受けた可能性もあるし、水を吸う紙と床では残り方も違う。
昨日はそこまで考えて、打ち切った。
紙は刷り直せる。その時点では、それ以上考える理由がなかったからだ。
でも今は、三人の話が噛み合っていないように見える。
なら、昨日はそこで考えるのをやめた濡れ方も、今は調査材料として拾い直す必要がある。
「二度目の雨が降った」
「うん」
「その直後に、濡れた資料が見つかった」
「うん」
「ここまでは見たことだ」
柚木が少しだけ首を傾ける。
「『二度目の雨で濡れた』は?」
「俺たちがそう思っただけだ」
「あー……」
柚木の視線が空き机へ戻った。
「近かったから、つなげたんだ」
「ああ。昨日はそれで十分だった」
「でも決まってはない」
「そういうことだ」
二度目の雨は、今でも一番自然に見える。
強い雨の直後に濡れが見つかった。
ただ、それを確定した前提にはできない。
「じゃあさ」
柚木が窓際から教室の方へ身体を向ける。
「これだけだと、三人の誰がどうとか全然言えなくない?」
「言えないな」
「だよね」
遠山は相変わらず友達と話している。
小坂も倉田も、自分たちが確認対象になっているなんて気にしている様子はない。
昨日みたいに周りから名前が出続けているわけでもなかった。
「今なら普通に聞けそう」
柚木が言う。
「何を」
「昨日の窓のこと。もうみんな落ち着いてるし、別に『誰がやったの』みたいな空気でもないじゃん」
「最初からそのつもりだろ」
「そうだけど。聞き方の話」
なるほど。
俺なら必要なことから聞く。
柚木は、相手がどう受け取るかまで含めて順番を作る。
昨日決めた通り、そこはこいつに任せた方がいい。
「三人とも聞くとして、誰からにする?」
誰から聞くか。昨日なら反応の大きさや話の曖昧さを比べたかもしれない。今は、窓がどう動いたかを最初から追えばいい。
「時間順」
「時間?」
「窓がどう動いたかを確認するなら、最初から追えばいい」
最初の雨で倉田が窓を閉め、そのあと雨が止んで遠山が開け、さらに小坂が閉めたと言っている。
今あるのは、まだその程度の粗い話だけ。
「じゃ、倉田から?」
「ああ」
「昨日一番落ち着いてたから、とかじゃなくて?」
「関係ない。最初だからだ」
「おっけ」
柚木がすぐに頷いた。
それから倉田の席へ目を向けたが、ちょうど別の男子が横から話しかけたところだった。
「今じゃなくていいか」
「次の休み時間でいいだろ」
「だね」
急ぐ理由はない。
二度目の雨が最有力なのは変わらない。
それでも、昨日ならそのまま置いておけた小さな引っかかりが、今は確認する理由になっている。
なら、誰か一人の記憶を先に疑う必要はない。
最初から順番に聞けばいい。




