第91話 風待ちの窓辺と、濡れた資料 5
柚木はまだ、俺の机の横にいた。
遠山を選ぶ理由はない。
小坂を選ぶ理由もない。
倉田を外す理由もない。
もう一度考え直しても、そこは変わらなかった。
俺は三人から視線を戻した。
「……分からん」
柚木が一度だけ瞬きをした。
「そっか」
返ってきたのは、それだけだった。
驚くでもなく、困った顔をするでもない。少し考えるように視線を横へ動かしてから、すぐに俺を見る。
「じゃ、普通に調べよ」
「普通に?」
「うん。普通に」
何を当然のことを、とでも言いたそうな顔だった。
「さっき見た紙とか窓際の状態、ちゃんと整理するとか。いつだったか確認するとか。あとは本人に聞くとか」
「……ああ」
俺は身体反応から、三人のうち誰を先に見るか決めようとしていた。
でも、先に誰かを選ぶ必要自体がない。
「でも、三人全員を疑う必要はないぞ」
「それは分かってるって」
柚木が軽く手を振る。
「犯人探しじゃないでしょ。そもそも犯人ってほどの話でもないし」
「紙が濡れただけだからな」
「しかも刷り直し済み」
実害だけなら、もう終わっている。残っているのは、倉田、遠山、小坂の話が噛み合っていないように見えることだ。
誰が怪しいかではなく、三人が何を見て、いつ何をしたと思っているのかを確認すればいい。
「さっき見た状態から整理するか」
「紙の濡れ方とか?」
「ああ。窓枠と床も」
資料を見つけた時、濡れていたのは束の上側、それも窓に近い方が中心だった。窓枠や床も見ている。
その時は資料をどうするかの方が先だったが、見たものまでなくなったわけじゃない。
「あと雨の時間」
柚木が指を折る。
「最初に降ったやつと、止んだあとと、また降ったやつ。そのへん」
「窓がいつ開いてたかもだな」
「それは三人に聞かないと分かんなくない?」
「だから聞く」
「うん。普通」
柚木が笑った。
「聞く方、あたしやろっか」
「何で」
「神崎より普通に聞けるから」
「俺も普通に聞ける」
「神崎の普通って、『何時に窓開けた?』から始まりそうじゃん」
「聞きたいことがそれならそうなるだろ」
「ほら」
何がほらなのか。
柚木は少し笑ったまま、教室の三人へ目を向けた。
「まあ、あたしも普通に話せるし。聞けそうなのあったら聞くよ。神崎はさっき見たやつ、整理しといて」
俺が全部やる前提ではないらしい。
考えてみれば、最初に三人の名前が残っていることを気にしたのも柚木だった。誰が誰と話していたかとか、教室の空気がどう変わったかとか、そういうものは俺よりこいつの方がよく見ている。
「分かった」
「おっけ。じゃあそれで」
「ただし今日はやらないぞ」
「え?」
柚木が時計を見る。
休み時間はもうほとんど残っていなかった。
「今から三人捕まえて、雨の時間まで整理する気か」
「あー……」
「明日でいいだろ」
「まあ、逃げるような話でもないか」
「誰も逃げないだろ」
「そういう意味じゃないって」
チャイムが鳴った。
教室のあちこちで、立っていた連中が席へ戻り始める。
遠山も話を切り上げて自分の席へ戻った。小坂は友達から借りていたらしいペンを返し、倉田はもう開いていた教科書へ視線を落としている。
三人とも、ただ次の授業を受ける生徒に戻っていた。
「じゃ、明日ね」
「ああ」
柚木も自分の席へ戻る。
俺は机の上の教科書を開いた。
授業が始まる。
その後、窓の話が完全になくなったわけではなかった。
休み時間になれば、思い出したように誰かが話題にする。
「結局あれ何だったんだろ」
「もうよくない? 刷り直したんでしょ」
「まあね」
その程度だ。
午後の授業が進むにつれて、濡れた資料より次の課題や部活の話の方が多くなっていった。
遠山はいつも通り男子数人と話し、小坂も友達と笑っている。倉田も特に弁明を続けることなく、自分の時間を過ごしていた。
あれだけ三人の身体反応を見ていた俺の方が、まだ気にしているくらいかもしれない。
三人を同じ基準で比べなくていい。遠山は遠山、小坂は小坂、倉田は倉田で、分かったことをそのまま確認すればいい。
放課後になる頃には、朝から降ったり止んだりしていた雨も落ち着いていた。
俺は澄と柚木と一緒に教室を出た。
作法室へ入ると、湿った教室に一日いた鼻がようやく静かになる。
桜小路先輩はすでに来ていて、手元の準備を進めていた。星野はその近くで自分の荷物を片づけている。
「こんにちは、神崎くん」
「こんにちは」
「先輩、お疲れさまです」
星野もこちらを見て軽く頭を下げる。
澄と柚木も挨拶を返し、それぞれ荷物を置いた。
桜小路先輩は作業を続け、星野がその横で何かを確認する。柚木は鞄からノートを出し、澄も自分のことを始めていた。
俺も空いている場所へ座る。
鼻へ入ってくる情報が減ると、身体から余計な力が抜けた。
三人の話がなぜ噛み合わないように見えるのかは、まだ分からない。
明日、確認すればいい。




