第90話 風待ちの窓辺と、濡れた資料 4
濡れた資料が教室からなくなっても、三人の名前は消えなかった。
「でも、小坂は雨の前に閉めたんだろ?」
「たぶんね。空暗くなってたし」
「じゃあ遠山が開けたあと、いつ閉めたんだっけ」
「だから、そのあとだって」
窓際から離れたところでも、そんな会話がまだ続いている。
誰も本気で責めているわけじゃない。
遠山も笑っているし、小坂も聞かれれば普通に答えている。倉田に至っては、もう次の授業の準備へ戻っていた。
それでも、一度名前が結びつくとなかなか離れないらしい。
倉田が閉めた。
遠山が開けた。
小坂が閉めた。
そこへ、さっきの強い雨で資料が濡れた、という話を重ねる。
すると、三人の誰かが時間を勘違いしているように見える。
紙の方は刷り直せば終わるのに、人間の記憶だけが教室に残った。
「神崎」
横から声がした。
顔を向けると、柚木が俺の机のそばに立っていた。
「何」
「さっきのやつなんだけど」
柚木が一度だけ周りを見る。
遠山は前の席の男子と話している。小坂は友達に何か返していて、倉田は教科書を机の上に出したところだった。
「三人の話、なんか引っかかる?」
「引っかかる?」
「誰かが嘘ついてるとか、そういう意味じゃなくてさ」
柚木は声を少し落とした。
「もう紙のことは終わったじゃん。でも、なんか三人のうち誰かが間違ってるみたいになってない?」
なるほど。
気にしていたのはそっちか。
柚木はさっきから濡れた資料ではなく、三人の方を見ていた。
「神崎、なんか気づいてないかなって」
俺はすぐには答えなかった。
犯人を当てろと言われたなら、そもそも前提がおかしいと返すところだ。
誰かが嘘をついていると決まったわけじゃない。
記憶違いかもしれないし、単純に時間の捉え方がずれているだけかもしれない。
ただ、柚木が聞いているのはそこじゃない。
三人の中に、もう少し確認した方がよさそうな相手がいるか。
その程度なら、分かるかもしれない。
今までだって、言葉だけを見てきたわけじゃない。
発汗、呼吸、体温変化に伴う揮発。普段との差。
そこに本人の行動や状況を重ねれば、次に何を確かめるべきかくらいは絞れることがある。
俺はミントを出しかけて、やめた。
教室の空気そのものが、今は十分うるさい。
雨は弱くなっても湿気と熱は残り、濡れた制服や傘に三十人以上の体温と汗が混ざっている。
情報が消えているわけじゃない。
むしろ多い。
多すぎて、小さな差ほど意味を決めにくい。
まず遠山を見る。
「なあ遠山、窓開けたのって雨止んですぐだっけ?」
近くにいた男子が聞くと、遠山が身体ごと振り向いた。
「ん? すぐっていうか、ちょっとしてから。暑かったから」
「結構開けてた?」
「知らね。そこまで時計見てねえよ」
笑いながら答える。
遠山の身体から入ってくる情報は、三人の中では一番強い。
汗も多い。熱を持った身体からの揮発も強い。
けれど、それは今に始まったことじゃない。
サッカー部で、普段から活動量が多く、暑ければ他の連中より先に汗をかく。今日みたいに湿度が高くて蒸している教室ならなおさらだ。
名前を出されて反応が増えたとしても、どこまでが話題への反応で、どこからがただ暑いだけなのか。
切り分ける根拠がない。
遠山から確認すべきだ、とは言えなかった。
「小坂さん、ほんとに雨降る前だった?」
今度は別の声が飛ぶ。
「だから、そうだと思うって」
小坂が少し眉を寄せた。
「空暗くなってきたから閉めたの。で、そのあと降ってきたと思う」
「思う?」
「何時何分とか覚えてないし」
「まあ普通そうだよな」
「そっちだって覚えてないでしょ」
小坂が言い返すと、近くにいた女子が笑った。
そのやり取りの途中、小坂の呼吸が少し変わる。
自分の名前が出た直後。
話題との時間的な重なりだけなら、遠山より分かりやすい。
だからといって、それが証言の怪しさを示すわけじゃない。
何度も同じことを聞かれれば面倒にもなる。
自分の記憶が周りの話と合わないと言われれば、不安にもなる。
さっきまで何でもなかった窓の開け閉めが、いつの間にか自分の記憶を確かめられる話になっている。
反応する理由はいくらでもあった。
小坂を先に確認する理由にもならない。
残るのは倉田。
さっきから一番変化が少ない。
名前が出ても顔を上げる程度で、必要なら答え、終われば自分のことへ戻っている。
斜め前からまた声が飛んだ。
「倉田は最初の雨だよな?」
「ああ」
「それだけ?」
「それだけ」
声も呼吸も、大きくは崩れない。
だから正しい。
――とはならない。
そもそも倉田がこういう話題でどの程度身体へ反応を出す人間なのか、俺は十分な基準を持っていない。
遠山みたいに普段から入力が大きいわけでもない。
変化が少なく見えることと、記憶が正確であることは別だ。
反応が小さいから除外する、というのも同じくらい雑だった。
「どう?」
柚木が聞く。
「まだ。基準を変えると順番も変わる」
「おっけ」
それだけ返して、急かさない。
俺はもう一度三人を見る。
遠山は反応が強い。
小坂は話題への反応が分かりやすい。
倉田は三人の中では落ち着いて見える。
三人に違いはある。
でも、その違いのどれが記憶の正確さに関係するのかは分からない。
どれか一つを重く見れば、選ぶ相手は変わる。
それで誰かを選ぶのは違う。
俺があとから都合のいい見方を選んでいるだけだ。
誰か一人を選ぶこと自体はできる。
でも、それを聞いた柚木は、その名前を意識する。
柚木が動けば、今度は周りも意識するかもしれない。
根拠の弱いまま名前を挙げれば、その名前だけが周りに残るかもしれない。
鼻は働いている。
三人の違いも取れている。
それでも、今ある情報だけで誰か一人を先に見る理由にはならなかった。
俺は机の上に置いた教科書へ一度視線を落とした。
柚木は何も言わず、まだ待っている。答えを急かすでもなく、別の誰かの名前を出すでもない。
もう一度、教室の三人を見る。
俺から柚木へ渡せる名前は、一つもなかった。




