第89話 風待ちの窓辺と、濡れた資料 3
さっきまで窓ガラスを叩きつけていた雨は、授業が終わる頃にはだいぶ弱くなっていた。
まだ降ってはいる。
ただ、教師の声を押し潰していた音はもうない。窓の向こうも白く霞んではおらず、校舎の輪郭が見えるくらいには戻っている。
終業のチャイムが鳴ると、教室の空気が一気にほどけた。
「すごかったな、さっき」
「帰る時まであれだったら最悪」
「傘あっても無理じゃね?」
そんな声があちこちから上がる。
俺もノートを閉じた。
強い雨に一度向いた意識も、もう次の授業の準備へ戻っていた。教科書を入れ替えて、机の上を空ける。それだけだ。
前の方では遠山が窓の外を見ながら何か言っていて、小坂が笑っている。倉田は椅子に座ったまま次の教科書を探していた。
澄も自分の席でノートをしまっている。
いつもの休み時間だった。
「これ、濡れてない?」
窓側から声が上がった。
大きな声ではなかった。それでも、近くにいた何人かがそちらを見る。
窓際の空き机に置かれていた資料だ。
次の授業でその机を使いたかったらしい男子が、積まれていた紙を持ち上げている。その上の方だけ、端が妙に反っていた。
「うわ、ほんとだ」
一枚めくる。
下の紙と軽く貼りついて、ぺり、と湿った音がした。
「さっきの雨じゃない?」
「吹き込んだんだろ」
直前にあれだけ降った。
窓際に紙が置いてあって、それが濡れている。
そう考えるのが一番自然だった。
俺も席を立つほどではなく、身体を傾けて資料の方を見る。
濡れているのは上の数枚だった。特に窓側の端が波打っている。紙全体が水を被ったわけではなく、角から染みた水分が少しずつ広がったように見える。
視線を少しずらす。
窓枠の内側には水滴が残っている。ただ、さっきの勢いの雨が開いた窓からしばらく吹き込み続けたにしては、濡れ方は弱い。
床にも水たまりはない。サッシの下に細かな水滴が散っている程度だ。
思ったより、周りは濡れていない。
とはいえ、窓をすぐ閉めたなら別におかしくもない。紙だけが先に雨を受けた可能性もある。水を吸う紙と床じゃ残り方も違う。
今の時点で、それ以上考える理由はなかった。
「何してる?」
教室へ入ってきた担任が、人の集まっている窓際を見る。
「先生、これ濡れてます」
「どれ?」
担任が資料を受け取り、何枚か確認した。
「ああ、上だけか」
濡れたものだけ抜き出して、脇へよける。
「まだ何も書いてないやつだから、これは刷り直す。乾いてる分はそのままでいいな」
「これ捨てるんですか?」
「乾けば裏紙にはできるだろ。とりあえず職員室持ってく」
それで終わった。
弁償するような物でもない。誰かの提出物でもない。あとで配る予定だった資料が何枚か使えなくなっただけだ。
担任も、誰が悪いなんて話はしなかった。
だから本来なら、それで終わるはずだった。
「でも、窓って開いてたっけ?」
誰かが言った。
担任が濡れた紙をまとめている横で、別の声が返る。
「さっき閉まってなかった?」
「雨降ってきた時には閉まってたよな」
「倉田、昼に閉めてなかった?」
名前を出された倉田が顔を上げる。
「ああ。最初に降った時な」
「じゃあ閉まってたんじゃん」
「いや、そのあと開いてたぞ」
今度は別のやつが窓側を見る。
「遠山が開けてなかった?」
遠山が振り返った。
「開けたけど。雨止んだあと。暑かったし」
隠すでもなく、普通に答える。
「だって蒸してたじゃん。あのまま閉めてる方がきつかっただろ」
「まあ、それはそう」
何人かが頷いた。
俺も覚えている。
一度目の雨が止んだあと、教室はむしろ蒸した。窓が開いて空気が動いたことで、さっきより呼吸しやすくなった。
遠山が窓を開けたこと自体には、何も不自然なところはない。
「でも、また降る前には閉まってなかった?」
小坂が口を挟んだ。
「私、閉めたよ。空暗くなってたから」
「いつ?」
「いつって……また降りそうだなってなった時。たぶん、そのへん」
小坂は窓を見て、それから少し首を傾げる。
「だから、雨強くなった時には閉まってたと思うけど」
「え、じゃあいつ濡れたんだよ」
誰かが笑い混じりに言った。
資料は刷り直せる。
担任ももう濡れた分を抱えている。
ただ、話だけが一つ引っかかった。
「倉田が閉めた」
「遠山が開けた」
「で、小坂が閉めたんだろ?」
「そう」
「じゃあ合ってるじゃん」
「でも濡れてるじゃん」
一瞬、間が空く。
「どっか時間違うんじゃね?」
「誰か勘違いしてるとか?」
その程度の言葉だった。
責めるような調子でもない。三人のうち誰かを指しているわけでもない。
それでも、三人の話に「さっきの強い雨で濡れた」を重ねると、どこか一つがずれているように見える。
「俺が閉めたのは最初の雨の時だけだぞ」
倉田はそれだけ言って、机の中へ視線を戻した。
遠山も、
「俺は止んでから開けた。そこは間違ってない」
と答える。
小坂は少し考えてから、
「私はまた降りそうだったから閉めたよ」
と言った。
三人とも、妙に必死になるわけでもない。
自分が覚えていることを、そのまま返しているだけに見えた。
なのに周りでは、
「じゃあ誰が時間ずれてるんだろ」
「遠山、開けっぱなしだったとかない?」
「いや閉まってたって」
「小坂が閉めたの、雨降ってからじゃない?」
と、話だけが勝手に続いていく。
遠山は「知らねえよ」と笑い、倉田はもう会話から半分抜けていた。小坂は「いや、たぶん前だって」と返しながら、自分でも少し自信がなくなったように窓を見ている。
担任が資料を抱え直した。
「はいはい、濡れた分はこっちでやっとくから。次の授業遅れるなよ」
その一言で、窓際に集まっていた連中も少しずつ散る。
濡れた紙は担任と一緒に教室から出ていった。
俺も次の教科書を机に置く。
そこで、ふと柚木が目に入った。
さっきまでは他のみんなと同じように資料を見ていたはずなのに、今は空いた窓際の机ではなく、少し離れた三人の方を見ている。
遠山。
倉田。
小坂。
誰かがまた、そのうち一人の名前を口にした。
別のところでも、同じ三つの名前が出る。
紙はもうない。
なのに、三人の名前だけは休み時間の教室に残っていた。




