第88話 風待ちの窓辺と、濡れた資料 2
雨が止んでからの方が、教室は蒸した。
さっきまで窓を細かく叩いていた音はもうない。外は相変わらず曇っているが、雲の切れ目から少しだけ明るさが戻っている。
その代わり、雨で冷えたはずの空気が教室の中まで届かない。
昼食を終えた人間の熱。食べ物の残り香。湿った制服。制汗剤。雨上がりの土とアスファルト。
水分を含んだ空気の中で、それぞれの匂いが妙に近い。
「暑っ」
遠山が露骨に嫌そうな声を出した。
「雨降ったのに、なんでさっきより暑いんだよ」
「だから蒸すって言っただろ」
倉田が返す。
「言ってたっけ?」
「言った」
「覚えてねえ」
「だろうな」
小坂が笑い、柚木も何か言い返す。澄は自分の昼食を片づけながら、そのやり取りを聞いていた。
俺も水筒を鞄へ戻す。
教室の中では、もう「雨が降っている」ではなく「さっき雨が降った」に変わっていた。
窓側でサッシの滑る音がした。
湿った風が入り込んで、教室に溜まっていた空気がゆっくり動く。
「あー、これだわ」
遠山の声がする。
「全然涼しくないけど」
「動かないよりマシじゃない?」
小坂が返した。
窓がいくつか開けば、それだけで空気の抜け方が変わる。肌にまとわりついていた熱がわずかに散って、混ざっていた匂いにも流れができた。
快適、とまではいかない。
それでも、さっきよりは呼吸しやすい。
誰かが窓際を通り、別の誰かが席を立つ。前の扉も一度開いて、廊下から別のクラスの声が流れ込んだ。
俺は机の上を片づけ、午後の教科書を鞄から出した。
ほどなく予鈴が鳴った。
「やば。次なんだっけ」
「今それ聞く?」
「確認だって」
「忘れてたんでしょ」
「確認」
柚木と小坂がそんなことを言いながら席へ戻っていく。
遠山も倉田も、それまで寄せていた椅子を戻した。教室のあちこちで机と椅子の脚が鳴り、昼休みにできていた小さな集まりがほどけていく。
澄も自分の席へ戻り、教科書を出した。
俺もノートを開く。
少しして担当の教師が入ってくると、教室のざわめきが収まった。
午後の授業が始まる。
黒板を擦る音と教師の声。
紙をめくる音。
シャープペンの芯が机の上へ落ちて、前の席のやつが小さく舌打ちする。
開いた窓からは相変わらず湿った空気が入っていたが、昼休みほど人が動かなくなった分、教室内の匂いも少しずつ落ち着いていく。
俺は黒板を見ながらノートへ視線を落とした。
数行書いたところで、机の上が少し暗くなった。
雲だ。
顔を上げる。
さっきまでわずかにあった外の明るさが消えていた。校舎の向こう側まで灰色が濃くなっていて、昼間なのに夕方へ寄ったような色をしている。
窓から入る風も変わっていた。
湿っているのは同じだが、さっきより冷たい。
前の方で誰かが窓を見る。
それにつられて数人の視線が外へ向いた。
「また降りそうだな」
小さな声がした。
「授業中だぞ」
教師の一言で、そいつはすぐ前を向いた。
教室の空気が少しだけ緩む。
俺もノートへ視線を戻した。
教師が黒板へ向き直り、続きを書き始める。
窓側で椅子の脚が鳴った。
ほぼ同じ頃、廊下側でも扉が一度動く。後ろでは落とした消しゴムを拾うやつがいて、その音に混じるようにサッシの滑る音も聞こえた。
教師が書いた次の式をノートへ移す。
その途中で、窓ガラスへ大きな雨粒がぶつかった。
ばらばら、と数回。
次の瞬間には、それが一つの音になった。
「うわ」
誰かが思わず声を漏らす。
一度目とはまるで違う。
雨粒が窓を細かく叩くなんてものじゃない。大量の水が風に押され、校舎へまとめてぶつかってくる。
向こうの校舎が、あっという間に白く霞んだ。
「すご……」
柚木の声が聞こえた。
今度は教師も注意しなかった。
黒板へ向けていた手を止め、窓の外を見る。
教室中の視線が、数秒だけ同じ方向へ集まった。
閉じたガラスの向こうで木の枝が揺れ、雨粒が斜めに走る。
さっきまで開いていた窓も、今は閉じているところが増えていた。
「さっきと全然違うじゃん」
遠山が小声で言う。
「それは見れば分かる」
倉田が返した。
「俺の放課後……」
「まだ言ってんの?」
小坂の声が重なって、近くで笑いが起きる。
教師がそこで咳払いした。
「雨は先生にも止められないからな。続けるぞ」
今度は少し大きめの笑いが広がった。
全員が一度に前を向くわけではない。
もう一度窓を見るやつもいるし、スマホを気にするみたいに鞄へ視線をやるやつもいる。それでも教師が黒板へ続きを書き始めれば、教室は少しずつ授業の形へ戻っていった。
俺もノートへ視線を落とした。
雨音はまだ大きく、閉じた窓越しでもはっきり聞こえる。それでも教師の声に合わせてノートを取り続けているうちに、外でまた強い風が吹いた。
窓ガラスに水がぶつかる。何人かがもう一度そちらを見たが、今度はすぐに黒板へ視線を戻した。
しばらくすると、教師の声とシャープペンの音がまた教室の中心に戻っていた。
窓の外では、まだ強い雨が降っていた。




