第87話 風待ちの窓辺と、濡れた資料 1
四時間目が終わった途端、教室の中でいくつも椅子が鳴った。机を寄せる音、鞄から昼食を出す音、廊下へ向かうやつと、逆に別のクラスから入ってくるやつが重なる。
六月の湿気に昼飯の匂いと制汗剤、それから朝より濃くなった汗が混ざって、教室の空気は一段重くなっていた。窓はいくつか開いているが、外も風が弱いらしく、カーテンはたまに端が動く程度だ。空気が抜けているだけましでも、涼しいとは言えない。
「今日、蒸しすぎじゃね?」
少し離れたところで遠山が言った。
「朝から曇ってるしな」
倉田が弁当を開けながら返す。
「雨降るなら降るで、さっさと降ってほしいわ」
「それで余計蒸すやつだろ」
「じゃあ詰んでんじゃん」
遠山は本気で嫌そうな声を出した。そこから部活がどうとか放課後がどうとか話が続いていたが、俺は手元の昼食へ意識を戻す。
反対側では柚木が小坂と話していた。澄もその近くで自分の昼食を取りながら、二人の会話を聞いている。
「朝ちゃんとやったのに、湿気で全部終わったんだけど」
「それ、朝から何回目?」
「まだ三回くらいじゃない?」
「三回言ってる時点で多いって」
「えー、でも見て。ほんとに終わってない?」
「うん。そこまで変わってない」
「優花、そういうとこ容赦なくない?」
「聞かれたから答えただけ」
柚木が納得いかない顔をして、澄が笑う。そのまま別の話題へ移ったらしく、今度は週末がどうとか、誰かの持ってきた菓子がどうとかいう声に変わった。
教室にいる以上、声も匂いも人の動きも勝手に入ってくる。窓側で椅子が引かれる音がしたが、俺はそちらを確認せず、そのまま昼食を続けた。
半分ほど食べたところで、前の扉が開いた。担任が紙の束を抱えて入ってきて、いったん教卓の上へ置く。
「これ、後日配る案内だから、まだ触らなくていいぞ」
「今日じゃないんですか?」
「後日。必要になったらこっちから言う」
「じゃあ忘れそう」
「お前が忘れても先生は忘れん」
教室の何人かが笑う。担任は教卓の上にあったファイルを避けると、昼休み中に使うものでもない紙束を持ち直し、窓側の空いている机へ移した。
白い紙が数十枚まとめて重なっている。表面に学校名と案内の見出しが印刷されているだけで、誰かの名前が入っているものでもなさそうだった。必要になれば配る、その程度の普通の紙束に見える。
担任が出ていくと、教卓の近くにいた連中もすぐ昼休みへ戻った。資料を気にしているやつはいないし、窓側でも別の会話が続いている。さっきまで止まっていた椅子や箸の音が、また教室のあちこちで動き始めた。
すぐ向こうの窓は開いていて、隙間から入る弱い空気で紙束の端がわずかに持ち上がっては戻る。俺は水筒へ手を伸ばし、口の中に残った味を流した。
「神崎、これ食う?」
遠山が何かの小袋を持ち上げる。
「いらない」
「即答かよ」
「自分で食え」
「そうするわ」
遠山は本当にその場で袋を開けた。倉田が「最初から自分で食う気だっただろ」と言うと、「一応聞いただけ」と返して、その話もそこで終わる。
しばらく昼食を続けていると、開いていた窓から入る空気の質が変わった。冷たくなったというほどではないが、さっきまで教室に溜まっていた湿気とは別の、水を含んだ外気が混じる。数秒遅れて、窓ガラスへ細いものが当たる音がした。
「ん、雨?」
誰かの声とほぼ同時に、窓の外へ細い雨筋が見えた。
「うわ、降ってきた」
「でも弱くない?」
「すぐ止みそう」
窓側で声が重なり、椅子の脚が床を擦った。何人かが動いたらしく、ガラス戸の滑る音も混じる。
俺も一度だけ外へ目を向けた。校舎の向こうが白く霞むような降り方ではなく、窓ガラスに細かな雨粒が増えている程度だ。少なくとも、教室の奥にいる俺のところまで雨粒が飛んでくるような雨ではない。
そのまま視線を手元へ戻す。
「これなら放課後には止むだろ」
「遠山、それ願望じゃない?」
「いや、俺の勘」
「もっと当てにならないじゃん」
小坂の声に近くで笑いが起きる。遠山が「ひどくね?」と返し、倉田は話を広げるでもなく昼食を続けていた。
雨音は、その会話を邪魔するほど大きくならなかった。窓に当たる細かな音がしばらく続き、湿った外気だけが教室の匂いへ薄く重なる。俺も残っていた昼食を食べながら、遠山たちのどうでもいい話を聞き流した。
そのうち窓ガラスを叩いていた音がまばらになり、少しして聞こえなくなった。外を見た誰かが「もう止んだ」と言うと、遠山がすぐに声を上げる。
「ほら、止んだ」
「放課後どころか昼休み中じゃん」
「早い分にはいいだろ」
「予想は外れてるけどね」
「そこはいいんだよ」
小坂が呆れたように笑い、柚木もそっちの会話へ混ざる。途中で止まっていた話はそのまま再開され、立っていたやつも少しずつ元の場所へ戻っていった。
外は相変わらず曇っている。雨が降ったせいか、入ってくる空気にはさっきより水っぽい重さが残っていた。俺は残っていた昼食を食べ終え、水筒を閉じる。
周りではまだ誰かが笑っていて、窓際でも別の会話が続いている。短い雨が一度降って、止んだだけで、昼休みはまたいつもの形へ戻っていった。




