第86話 梅雨晴れの放課後と、足りないひとり 3
目の前に残った記録用紙を揃え、使った分と予備を分ける。
一般参加者が帰ったあとの作法室は、さっきまでよりずっと静かだった。濡れた制服や整髪料、制汗剤の匂いはまだ入口側に残っているが、もう新しい情報が増えてくることはない。人が動くたびに別の匂いが重なっていた時間に比べれば、今は何がどこにあるかを一つずつ拾える。
参加者用に広げていた場所も、少しずつ普段の形へ戻り始めている。机の上の紙や道具を見ていれば、それで済む。
「柚木さん、その束はこちらへお願いします」
「はーい。これ、残すやつですよね?」
「ええ。今日の記録ですから」
「じゃあ、こっちは?」
「それはわたくしがまとめます」
桜小路先輩と柚木の声が少し離れたところで続く。
「先輩、これどこですか?」
「星野さん、それはそちらの箱で大丈夫ですよ」
「了解です」
星野も素直に箱へ紙を入れた。
隣では、澄が机の上に残っていた湯呑みや細かいものを集めている。
「真白先輩、これもお願いします」
星野が空の湯呑みを一つ差し出す。
「うん。そこ置いてて」
「ありがとうございます」
星野が机の端へ置いた湯呑みもまとめると、澄は今度は参加者が使っていた側へ手を伸ばす。机の上を整えたあと、そのまま入口側へ移っていった。
体験会の間だけ動かしていた物も多い。元の位置を知っている五人だけになれば、戻すのに説明はいらなかった。
俺は紙の束を箱へ入れ、空いた机の端に寄せる。
「神崎くん、その箱は棚へ戻していただけますか?」
「分かりました」
持ち上げても大した重さじゃない。棚まで運んで戻し、ついでに近くに置かれていた予備の記録用紙も元の段へ差し込む。
振り返る頃には、柚木と星野が参加者用にずらしていた座布団を戻していた。
「くるみ、そっち一枚余ってない?」
「余ってますけど、柚木先輩の方が一枚多く持ってません?」
「……ほんとだ」
「人に聞く前に見てくださいよ」
「今見たからセーフ」
「何がセーフなんですか」
さっきまで一般生徒がいた部屋とは思えないくらい、いつもの調子に戻っている。
俺も自分の前に残っていたものを順に片付けた。
紙を戻し、空いた箱を重ね、端へ寄せていたものも元の位置へ置く。
やることが決まっていれば、考える必要はない。
体験会の最中より匂いも少ない。誰かの反応を追う必要もなく、鼻の奥に残っていた重さもさっきよりかなり薄い。
「神崎、それそっち終わった?」
柚木に聞かれ、手元を見る。
「ああ。これは終わり」
「じゃ、こっちはあたしやるね」
「分かった」
柚木はそのまま別の束を持って桜小路先輩の方へ行った。
俺も最後の箱を棚へ押し込み、扉を閉める。
これで一つ終わった。次に急いで手をつけるものもなく、ほんの数秒、手が空いた。
顔を上げる。
視線が、さっきまで澄がいた机の脇へ向いた。
誰もいない。
そのまま少し右へ動かす。入口側には柚木がいて、しゃがんだまま座布団を揃えている。反対側では星野が箱の中身を確認し、桜小路先輩は棚の前にいた。
もう一度、部屋の中へ目をやる。
「神崎、何探してんの?」
柚木の声が飛んできた。
「何って――」
返しかけて、止まる。
さっきまで澄がいた場所を見た。
そこにいなかったから、次に部屋の中を見た。
柚木に聞かれて、視線を動かした順番が少し遅れて頭に戻ってくる。
「……澄、どこ行った?」
「澄ちゃん? 水屋の方。入口の片付けたやつ、持ってってたよ」
「そうか」
「うん」
柚木はそれだけ答えると、また座布団へ視線を戻した。
水屋にいるらしい。
俺もそのまま、まだ残っていた荷物置きの位置を元へ戻す。
「神崎先輩、そっち持ちます?」
「いや、これくらいなら一人でいい」
「じゃあ私、こっちやりますね」
「ああ」
星野が別のものへ手を伸ばす。
それからしばらくして、水屋側から澄が戻ってきた。
「先輩、向こう終わりました」
「ありがとう、真白さん。こちらももう少しです」
「じゃあ、残ってる方やりますね」
澄はそのまま空いている場所へ入り、片付けを続ける。
俺も手元のものを戻した。
机の上に残っていたものも、ほとんどなくなっていた。
「これで最後かしら」
桜小路先輩が部屋を見回した。
「たぶん。あ、入口の荷物置きも戻ってます」
柚木が答える。
「水屋も大丈夫です」
澄が続き、星野も箱の中を覗いてから蓋を閉じた。
「こっちも終わりました」
「では、今日はこれで終わりにしましょう。皆さん、お疲れさまでした」
「お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでした」
柚木と星野がそれぞれ返し、俺も鞄を取る。
澄はいつものように自分の荷物を持ち上げた。
「慧くん、行こっか」
「ああ」




