第85話 梅雨晴れの放課後と、足りないひとり 2
最後の香が回り終える頃には、窓から入る空気に残る雨の気配は、かなり薄くなっていた。濡れた傘や制服の匂いはまだ入口側に残っているが、休憩前のように香の輪郭へ何度も重なってくるほどではない。
俺は手元の記録を見直してから、鉛筆を置いた。向かいでは小坂が最後まで迷っていたらしく、紙の上で鉛筆を行ったり来たりさせている。
「……やっぱこっちかな」
「まだ変えるの?」
西垣が横から笑うと、小坂は記録用紙を腕で隠した。
「だって最後に聞いたら、さっきと違う気がしたんだって」
「それ見せてもらっても、私分かんないけど」
「じゃあ覗かないでよ」
「隠すから気になるんじゃん」
そのやり取りの横で、森谷も自分の紙に最後の線を引いた。星野が少し身を乗り出しかけたが、途中で止まる。
「決まった?」
「たぶん。くるみの言ってた通り、正解を出そうとするより、こっちの方が考えやすかった」
「だよね。私も最初、当てようとすると余計こんがらがったから」
森谷が頷き、自分の記録をもう一度見直す。その少し先では井川先輩も書き終えたらしく、桜小路先輩へ顔を向けていた。
全員の手が止まったのを確認して、桜小路先輩が口を開く。
「では、皆さん決まったようですし、最後の確認をしましょうか。途中で迷ったところも、そのままで構いませんよ」
「変えたら駄目ですか?」
「答えを見る前でしたら、お好きにどうぞ」
「優花、まだ変える気?」
「今のでちょっと不安になった」
柚木に笑われながら、小坂が結局一か所だけ線を引き直す。桜小路先輩は急かさず、それが終わるまで待ってから香図を示した。
紙が動く音がいくつか重なる。
「あ、ここ逆だ」
最初に声を上げたのは小坂だった。さっきまで迷っていた場所を指で押さえ、その隣を見て首を傾げる。
「でもこっちは合ってる。なんで?」
「私、そこ両方同じだと思ってた」
西垣も自分の記録と香図を見比べる。森谷は一度黙って確認したあと、小さく「あ」と声を漏らした。
「一個、ちゃんと合ってた」
「よかったじゃん」
「でもこっちは全然違った」
「私も最初そんな感じだったよ」
星野が笑うと、森谷も少しだけ笑い返した。
井川先輩は自分の紙を見ながら、桜小路先輩へ尋ねる。
「こういうのって、慣れるともっと分かるようになるもの?」
「経験で拾いやすくなる違いはあります。ただ、当てることだけが目的ではありませんから。今日のように、ご自分で聞いて、比べて、考えていただければ十分ですよ」
「なるほどね。思ってたより頭使ったけど、面白かった」
桜小路先輩が穏やかに頷いた。
俺も自分の記録へ目を落とす。取れた情報はある。途中で室内の状態を見て、一度止めた方がいいと判断した時も、必要な材料は拾えていた。
その一方で、分からなかったものもある。確信まで届かず、そう答えた場面もあったし、自分では処理しなかったこともあった。
「香図見るの、結構面白いね」
小坂の声で記録から顔を上げる。
「もっと香り当てる感じだと思ってた。こうやって線になって、あとから比べるのちょっと楽しい」
「私は、同じだと思ったのが違ってた方が面白かったかも」
西垣が自分の紙を見せると、小坂がすぐに覗き込んだ。
「どこ?」
「ここ。優花と逆」
「え、待って。じゃあ佳帆ちゃんは?」
「わ、私?」
急に話を振られた森谷が紙を持ち上げる。その横から星野まで加わり、三枚の記録用紙が並んだ。
「みんな結構違いますね」
「ほんとだ。なんか安心した」
「何に?」
「私だけ全然違ってたらどうしようって思ってたから」
「試験じゃないって先輩が言ってたじゃん」
「分かってても気になるの」
小坂と西垣がまた笑う。
誰も、全部当たったかどうかだけを話していなかった。間違えた場所を見せ合い、同じだと思ったものが違っていたことを面白がり、自分がどう感じたかを比べている。
途中で答えられなかった俺のことも、もう話題にはなっていない。
目の前では四人とも、最後まで自分の記録を作り終えていた。
香図を囲む笑い声は、そのまま続いていた。
俺も手元の記録から顔を上げた。
「それでは、本日の体験会はここまでにしましょう。長い時間、お付き合いいただいてありがとうございました」
桜小路先輩が締めると、四人が揃って姿勢を直した。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。来てくださって嬉しかったです」
堅い空気になるかと思ったが、小坂はすぐ柚木の方へ身体を向ける。
「玲奈、普通に楽しかった」
「でしょ?」
「なんで玲奈が得意げなの」
「あたし香道部員だから」
「それは知ってるけど」
西垣が横で吹き出す。森谷も記録用紙を大事そうに持ちながら星野へ声をかけた。
「くるみ、誘ってくれてありがと。またこういうのあったら教えて」
「もちろん。今度は今日より余裕あるよ、たぶん」
「なんで最後だけ自信ないの?」
「そこはほら、香りだから」
意味の分からない逃げ方をした星野に、森谷が笑う。
井川先輩も帰り支度をしながら、桜小路先輩へ記録を示した。
「これ、持って帰っていいのよね?」
「ええ。よろしければ今日の記念に」
「じゃあもらってく。次見た時、自分が何考えてたか分かりそうだし」
四人が鞄を手に取ると、澄が入口側へ回った。まとめてあった傘を取りやすいよう少しずらし、その間に桜小路先輩と星野が使った紙や道具を邪魔にならない位置へ寄せていく。
「忘れ物ない?」
柚木が小坂たちを見回す。
「たぶんない」
「たぶんって何」
「傘ある、鞄ある、紙ある。大丈夫」
「じゃ、廊下出てから気づいて戻ってこないでよ」
「それ前に玲奈がやったやつじゃん」
「今それ関係なくない?」
小坂が笑いながら西垣たちの方へ戻り、そのまま四人で作法室を出ていく。廊下からもう一度「ありがとうございました」と声が戻り、桜小路先輩がそれに返した。
足音が遠ざかるにつれて、部屋の中が急に広くなる。人数が四人減っただけで、空気の情報量もかなり落ちた。濡れた制服や整髪料、制汗剤の残りはまだあるが、さっきまでみたいに別々の方向から押し寄せてはこない。
「さて、片付けましょうか」
「はーい。優花たち、思ったより楽しんでましたね」
「佳帆も。来る前はちょっと緊張してたみたいですけど」
柚木と星野が話しながら記録類をまとめ始める。桜小路先輩も使用した道具を確認し、元の場所へ戻すものを分けていた。
俺も自分の前に残った紙を揃え、使い終えたものへ手を伸ばす。すぐ近くでは澄も同じように、机の上に残ったものをまとめ始めていた。
いつもの五人に戻った作法室で、そのまま片付けが始まった。




