第84話 梅雨晴れの放課後と、足りないひとり 1
桜小路先輩の答え合わせが終わっても、作法室の空気は特に変わらなかった。小坂たちはそれぞれの記録へ戻り、違っていた線を直したり、横に短いメモを書き足したりしている。
俺が「そこまでは分からない」と答えたことも、もう話題にはなっていない。先輩は次の準備へ手を移していて、小坂も自分の紙を見直していた。
窓の外は、さっきより明るい。細かく落ちていた雨はいつの間にかほとんど止み、旧校舎の屋根や木の葉から水滴だけが落ちている。
ただ、部屋の中にはまだ雨の日の空気が残っていた。入口に集めた傘や鞄、濡れた制服。それに四人増えた分の生活の匂いが、普段より長く作法室に留まっている。
最初に四人が入ってきた時よりはましだが、香以外のものを簡単に背景へ落とせるほどでもない。
「佳帆、そこ迷ってる?」
星野の声にそちらを見ると、森谷が記録用紙と香図を交互に見ていた。一度鉛筆を紙へつけたあと、何も書かずに離している。
「ちょっと。これでいいのかなって」
「私も最初、そのへんで止まったよ。正解の形にしようとすると、何が何だか分かんなくなるんだよね」
星野は森谷の紙を覗き込まず、自分の前にある見本用の紙を指で軽く叩いた。
「とりあえず、さっき自分がどう感じたかだけ整理してみたら? 同じか違うかは、そのあとでも考えられるし」
「……あ、それなら書けるかも」
森谷はもう一度鉛筆を持ち直した。星野もそれ以上口を挟まず、自分の手元へ戻る。
その少しあと、小坂が桜小路先輩の方を見た。口を開きかけて、先輩が手元の道具を確認しているのを見ると、そのまま記録へ視線を落とす。
「優花、なんか聞きたい?」
「え? あー……今いいのかなって」
「聞くだけ聞けば? 先輩、今大丈夫ですか?」
「ええ。どうぞ」
桜小路先輩が顔を上げると、小坂は手元の紙を持ち上げ、空いている箇所を指で示した。
「これ、分からないところって空けたままでもいいんですか? 何か書いた方がいいのかなって」
「もちろん、そのままでも大丈夫ですよ。今は正解を埋める試験ではありませんから、ご自分で分かったところだけ残しておいてください」
「よかった。じゃあ無理に決めなくていいんだ」
「優花、さっきからそこずっと見てたもんね」
「玲奈、それ気づいてたなら早く言ってよ」
「今聞いたじゃん」
二人のやり取りに西垣が笑う。桜小路先輩はその間に次の確認へ戻り、星野も森谷の方を一度見てから記録用紙を揃え直した。
俺は香炉の置かれている側と入口側の空気を比べる。
雨は止んでも、入口寄りには濡れた布や傘の匂いがまだ残っている。窓から入る空気にも湿り気があり、香の余韻が薄くなるにつれて、そちらの方がまた目立ち始めていた。
今すぐ続けられないほどではない。ただ、このまま次へ進むより、少し時間を置いた方が条件はよくなる。
「先輩」
「なあに、神崎くん」
「一度、少し間を置いた方がいいかもしれません。入口側の濡れたものの匂いがまだ残ってます。雨は止んだみたいなので、少し空気を動かせば今よりは落ち着くと思います」
桜小路先輩は窓の外と参加者たちの手元を順に見てから、時計を確認した。
「では、ここで少し休憩にしましょうか。皆さんも一度、手を休めてください」
「はーい」
小坂が真っ先に返し、井川先輩も肩の力を抜いた。
「美晴さん、お疲れではない?」
「まだ平気。思ったより頭使うけどね」
桜小路先輩は井川先輩と話しながら、次に使うものを確認する。その横では、森谷が星野へ自分の記録を見せていた。
「佳帆、さっきの続き分かった?」
「ちょっとだけ。くるみの言ってた意味は分かった」
「よかった。私も最初、正解に寄せようとして余計分かんなくなったから」
柚木は小坂と西垣の間で、そのままさっきの話を続けている。小坂の言葉が切れると西垣へ話を振り、返ってきた言葉に笑っていた。
澄はその輪には入らず、窓の外を確認してから桜小路先輩へ声をかける。
「先輩、雨ほとんど止んでます。窓、もう少し開けても大丈夫ですか?」
「ええ。寒くならない程度ならお願いするわ」
「はい」
澄が窓を少し広げ、それから入口脇へ戻る。置かれた鞄の一つが通り道へ出かけているのを見つけると、持ち主へ声をかけて少し寄せてもらい、空いた場所へ濡れた傘をまとめ直した。
昔から、澄はこういうところまでよく見ている。
窓から入る空気が変わるにつれて、入口に溜まっていた濡れた布の匂いも少しずつ散っていく。
「香道部って、普段もこんな感じなの?」
「こんな感じって?」
「もっと静かにずっと香り聞いてるのかと思ってた」
「いや、普通に喋るよ。ね、神崎」
「俺に振るな」
「否定しないじゃん」
「否定するほど間違ってないからだろ」
小坂が笑い、西垣もつられて口元を緩めた。休憩というより、体験会の中に普段の放課後が少し混ざったような時間だった。
しばらくして、もう一度香の周囲へ意識を向ける。九人分の気配がなくなったわけではないが、入口側から何度も重なってきていた匂いは前より薄い。香の周りも、さっきより追いやすくなっている。
「先輩、今なら大丈夫です」
「ありがとう。では、そろそろ続きを始めましょうか」
散っていた視線が少しずつ戻ってくる。西垣も香の方を見ながら、手元の紙を持ち直した。
「なんか、さっきより分かりやすいかも」
「ほんと? 私ももう一回ちゃんと聞こ」
小坂が記録へ目を落とす横で、桜小路先輩が次の説明へ入った。
香が回り始める。
途中、小坂が何か言いかけて柚木を見ると、すぐに「どうした?」と声が返った。少し離れたところでは森谷が星野と短く話し、澄は使い終えたものを通路から外している。
その間にも、香は順番に進んでいった。
俺は手元へ回ってきた香炉を受け取る。湿った空気も、人の匂いもまだ残っている。それでも今、確かめるべきものはきちんと拾えた。
香炉を次へ送る。
窓の外では雨が上がり、濡れた旧校舎の屋根へ薄い明るさが戻っていた。作法室では次の香が回り、紙の上を鉛筆が動いている。
俺も、自分の記録へ線を引いた。




