第83話 紫陽花の午後と、それぞれの持ち場 4
最初の香が一巡すると、桜小路先輩の手元へ香炉が戻った。
室内にはまだ香の余韻が残っている。その後ろに、雨を吸った傘や制服、濡れた髪、四人分の生活の匂いが重なっていた。さっきより慣れてはきたが、消えたわけじゃない。
先輩が次の香を用意する間、小坂たちは記録用紙へ何かを書き込んでいた。
「これ、今のうちに書いていいんだよね?」
「ええ。感じたことでも、前の香との違いでも、ご自由にどうぞ」
小坂は「じゃあ忘れないうちに」と鉛筆を動かす。その隣では西垣が一つ前の記録を見直してから、少し考えて書き足していた。
森谷は自分の紙を見たあと、一度だけ星野の方を向いた。
「くるみ、これって――」
そこまで言って、口を閉じる。
「……いや、やっぱ自分で考える」
「私に聞いても正解は分かんないよ」
「それもそうだった」
二人が小さく笑う。井川先輩も桜小路先輩へ答えを聞くことはなく、手元の記録と香炉を交互に見ていた。
次の香が回り始める。
俺も香炉へ意識を戻した。
香そのものは分かる。最初のものとの違いも拾えるし、似ている部分があるかどうかも、ある程度までは追えた。
問題は、その「ある程度」の先だった。
湿度が高い。窓から入る空気にもまだ雨が残っている。香が通ったあとにも、四人分の衣服や整髪料、制汗剤の匂いが背景から完全には沈まない。
全部が邪魔というほどじゃない。それぞれを分けて拾おうと思えば拾える。
ただ、それをやれば今度は情報が増えすぎる。
俺は四人の側へ広がりかけた意識を、また香炉の周辺へ戻した。今見るのは香と、その近くの空気だけでいい。
三つ目、四つ目と進むうちに、手元の記録も増えていった。
俺の中にも候補はできている。
この二つは近い気がする。こっちは違う。もう一つは、前のどれかと似ているようにも思える。
だが、最後のところで線を引けない。
似ているのか、それとも湿った空気と残香が重なってそう感じているだけなのか。普段ならもう少し切り分けられるところが、ここまではまだきれいに分離できていない。
「それでは、最後です」
桜小路先輩の声に、室内の視線が香炉へ戻る。
五つ目を聞き終えると、小坂がすぐに紙へ顔を落とした。西垣は鉛筆を持ったまま前の記録と見比べ、森谷は眉を寄せながら自分の書いたものを指で辿っている。
「え、待って。最初の方もう怪しくなってきた」
「だから書いておいてよかったでしょ?」
「書いたの見ても怪しいんだけど」
「それはもう佳帆の問題じゃない?」
「冷たいなあ」
星野の返しに、また小さく笑いが起きた。
井川先輩はその横で、しばらく考えてから一本線を書き足す。
「こう……かな。雅、もう変えたら駄目?」
「まだ答え合わせの前ですから、ご自分が納得するまでどうぞ」
「それ言われると余計迷うね」
俺も自分の中の候補をもう一度並べ直した。
一つ目と三つ目。いや、三つ目の残り方は少し違った気もする。二つ目と五つ目にも近い部分はあったが、同じだと言い切れるほどじゃない。
前なら、もう少し追ったかもしれない。
曖昧なところがあれば、何が混ざっているのか一つずつ切り離して、できるだけ確かな答えまで持っていこうとした。
それで一度、外した。
自分では十分に分けたつもりでも、実際にはそうじゃなかった。鼻で拾えている情報が多いことと、その情報から出した答えが正しいことは同じじゃない。
「できた」
小坂が鉛筆を置いた。西垣も少し遅れて手を止め、森谷と井川先輩もそれぞれ紙から顔を上げる。
「では、皆さん決まりましたか?」
「たぶん」
小坂が答える。その隣で、西垣も自分の紙を見たまま頷いた。
「私も」
「変えたくなる前にお願いします」
井川先輩が言うと、森谷も紙から顔を上げた。
「わたしも大丈夫です」
小坂が俺を見た。
「神崎はどうだった?」
普通の聞き方だった。正解を求めているというより、自分の答えを出したあとで、近くにいた俺がどう感じたのか聞いただけに見える。
「俺は――」
言いかけて止まる。
候補ならある。
一つ目と三つ目が近い気がした。別の組み合わせも考えられる。どれかを口にして、「たぶん」と付ければ会話としては成立する。
けれど、その「たぶん」がどの程度のものかは、自分で分かっていた。
分け切れていない。
なら、答えは決まっていた。
「そこまでは分からない」
「そっか」
小坂はそれだけ言って、自分の紙へ視線を戻した。それ以上、理由を聞くこともなかった。
俺の方には、一瞬だけ妙な引っかかりが残った。
もう少し追わなくていいのか、と考えかける。
だが、今から四人分の匂いまで拾い直して、曖昧な候補を無理に一つへ絞る必要はない。俺は答え合わせをする役でもない。
「それでは、確認しましょう」
桜小路先輩が頷き、いつもと同じ調子で答え合わせへ進んだ。手元の紙を示し、五つの香の組み合わせを順に確認していく。
「あ、そこ違った」
「私もです」
「え、真由そこ合ってたの?」
「そこはね。代わりにこっち間違えた」
答えが分かるたび、四人の紙の上で線と正解が見比べられていく。森谷は自分が迷っていたところで「ああ、そっちだったんだ」と笑い、井川先輩も隣の記録を見ながら納得したように頷いていた。
柚木は参加者側に混じって話を聞き、星野も森谷の紙を覗き込みながら何か言っている。澄はその少し外側で、使い終えたものと次に必要なものが混ざらないよう静かに手元を整えていた。
俺も答えを聞きながら、自分の感覚と照らし合わせる。
近いと思った部分はあった。違うと分けられたところもある。逆に、最後まで確信できなかったところも、そのまま残っている。
答え合わせが終わっても、書き足すものはなかった。
俺は香図から顔を上げた。
先輩の説明が終わると、四人はまたそれぞれの記録へ目を落とした。室内にはまだ雨の匂いも、知らない四人分の生活の匂いも残っている。
それでも香は届いていた。
俺は席を立たず、次に必要になる香と、その周囲の空気へ意識を戻した。体験会は止まることなく、そのまま次へ進んでいった。




