第82話 紫陽花の午後と、それぞれの持ち場 3
放課後、旧校舎の廊下にはまだ雨の匂いが残っていた。少し前まで窓を叩いていた雨は弱くなっているが、開けた窓から入る空気も、廊下の木も、いつもより水分を含んでいる。窓の外では、紫陽花の葉に残った水滴が風のたびに落ちていた。
作法室へ入ると、その湿気が少しだけ薄くなった。窓の開け方も、座布団の位置も、入口から香炉を置く場所までの空間も、月曜日に最後の確認をした時のままだ。
「神崎くん、こちらはどうかしら」
桜小路先輩に呼ばれ、机の上へ意識を向ける。今日使う香と周囲の空気を順に確かめたが、今のところ邪魔になるような強い匂いはなかった。
「大丈夫です。入口側も、今なら問題ないです」
「ありがとう。では、あとは皆さんをお迎えしましょう」
先輩はそう言って、手元の香道具へ戻った。柚木は入口の方で説明用の紙を見直し、星野は参加者へ渡す記録用の紙を揃えている。
澄は座布団の列を一度見てから、入口脇へ移った。濡れた傘や鞄を置く場所を確認しているらしく、床に置かれた籠と座る位置の間を実際に歩いている。
「慧くん、ここ通れる?」
「通れる。傘が四本増えても、こっちには出ないと思う」
「うん。じゃあこのままにするね」
それだけ確認すると、澄は別の座布団へ向かった。俺も香の近くへ戻る。
今日は本番だが、今のところ昨日までと大きく違うことはない。五人しかいない作法室なら、誰がどこで動いているかも、どの匂いを無視していいかも、考える前にだいたい分かる。体験会全部を見るつもりはないが、自分の見る範囲だけは外したくなかった。
「来たよー」
廊下から柚木の声がして、すぐに戸が開いた。雨で濡れた外気が、細い隙間から先に入り込む。
「失礼します」
最初に入ってきたのは小坂だった。その後ろから、西垣、井川先輩、森谷と続く。
「優花、真由ちゃん、こっち。傘はそこに置いて大丈夫だから」
「ありがと。思ったよりちゃんとしてる部屋なんだね」
小坂が室内を見回す横で、西垣は入口に置かれた説明の紙へ先に目を向けた。森谷は少し後ろから中を覗いていたが、星野を見つけると表情を緩める。
「佳帆、こっち」
「うん。なんか急に緊張してきたかも」
「私も最初そうだった。座ったらだいぶ普通になるよ」
「それ、くるみが言うとちょっと怪しいんだけど」
森谷はそう言いながらも、星野の隣へ入ってくる。井川先輩は濡れた傘を入口脇へ置くと、桜小路先輩へ目を向けた。
「雅、ほんとにこういう部屋でやってたんだ」
「ええ。ようこそ、美晴さん」
「なんかその言い方だと、急にお客さんになった感じするね」
桜小路先輩が笑って、四人へ座る場所を示した。柚木も話をつなぎながら中へ入り、澄は濡れた傘と鞄が通路へ出ないよう位置を整えている。
そこまでは、金曜日に試した流れとほとんど同じだった。違ったのは、四人が戸をくぐった直後だった。
湿った制服。雨を吸った傘。濡れた髪と靴。鞄に残った外気。洗剤や柔軟剤、整髪料、制汗剤、それに歩いてきた分の汗。
どれか一つが強いわけじゃない。普通の高校生が四人、弱い雨の中を旧校舎まで歩いてここへ来た。その結果が、まとめて部屋へ入ってきただけだ。
それでも、五人しかいなかった時とは空気の情報量がまるで違った。作法室そのものは整っているのに、普段なら背景に回せる匂いの中に、四人分の知らない匂いが混じっている。息が詰まるほどではないが、普段なら意識の外へ落とせるものが、今日は簡単に落ちてくれない。
「神崎?」
柚木に呼ばれて顔を上げた。入口側に立ったまま、こっちを見ている。
「何でもない。そっちは?」
「四人とも座れたし大丈夫。そろそろ始めるって」
「ああ」
返してから、もう一度室内へ意識を戻す。小坂の近くには濡れた布の匂いがあり、西垣の側では別の洗剤が混じる。森谷の呼吸はさっきより少し速いし、井川先輩からも歩いてきた後の発汗は拾えた。
だが、それが何を意味するかまでは決められない。雨の中を歩いてきた。階段も上がった。湿度も高い。そもそも四人が普段どんな状態なのか、俺は知らない。
知っている五人なら、いつもと同じ部分は背景に回せる。今日は違うと分かれば、その差だけ拾えばいい。
知らない四人については、その「いつも」を俺が知らない。一人ずつ状態を追おうとすると、頭の中へ残る情報が増えていく。誰の呼吸がどう変わったか、どの匂いがどこから来たか、そんなものを追い始めれば、今日俺が見るはずだったものまで埋もれそうだった。
俺は一度、入口側から香を扱う場所まで視線を動かした。濡れた傘は澄が決めた位置に収まり、香炉を置く側との間には距離がある。窓から入る湿った空気はあるが、今のところ香の近くに外から入った強い匂いはない。
なら、見るのはそこまででいい。香の周りに何があるか。空気がどう動いているか。今日使う香に余計なものが混ざっていないか。
意識する範囲をそこへ戻すと、消えたわけではない四人分の匂いが、少しだけ遠くなった。鼻が鈍くなったわけでも、部屋が元に戻ったわけでもない。ただ、全部を同時に追わなくて済む。
「それでは、始めましょうか」
桜小路先輩の声で、四人も手元から顔を上げた。室内の視線が先輩へ集まる。
「今日は、五つの香りを順番に確かめていただきます。香りの名前を当てるものではありません。どれとどれが同じ香りだったか、その組み合わせを考えていただく遊びです」
「名前知らなくてもいいんだ」
小坂が手元の紙を見ながら言う。西垣も同じ紙へ視線を落とした。
「ええ。最初は同じか違うかだけ考えていただければ大丈夫です」
西垣は説明の紙と記録用紙を見比べてから、小さく頷いた。森谷は「五回か」と指で数え、井川先輩は桜小路先輩の手元を興味深そうに見ている。
「この組香を、源氏香といいます」
「へえ、それが名前なんだ」
森谷の声に、星野が隣で頷いた。さっきまで室内を見回していた森谷の肩も、少しだけ下がっている。
「私も最初、名前だけ聞いても何するのか全然分かんなかった」
「じゃあ安心した」
「そこは安心するところ?」
小さく笑いが起きる。柚木は参加者側に近い場所へ座り、星野も四人の様子を見られる位置に落ち着いた。
澄は入口側を一度確認してから、道具を扱う手元と人の通り道を邪魔しない場所へ戻る。桜小路先輩の前には香道具が揃い、俺の前には香を扱う空間が残った。
先輩の手が動き、最初の香が回り始める。さっきまで残っていた小さな会話も、自然に途切れた。
香そのものは、きちんと拾えた。けれど、その後ろには湿った制服も、四人分の生活の匂いも、雨の空気も残っている。
いつもの作法室と同じ余裕ではない。それでも俺は席を立たず、香の近くと、その周囲だけへ意識を絞った。
小坂たちは順番に香を聞き、自分の記録へ視線を落としていく。まだ誰も答えを知っていないし、俺も四人の反応を追わない。
見るべきものは、今ここにある香と、その周りの空気だけだった。知らない匂いが背景に残ったまま、それでも最初の一つは確かに届いている。準備してきた体験会は、もう始まっていた。




