↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
青梅雨の窓辺と、香図の答え

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
82/93

第82話 紫陽花の午後と、それぞれの持ち場 3

 放課後、旧校舎の廊下にはまだ雨の匂いが残っていた。少し前まで窓を叩いていた雨は弱くなっているが、開けた窓から入る空気も、廊下の木も、いつもより水分を含んでいる。窓の外では、紫陽花の葉に残った水滴が風のたびに落ちていた。


 作法室へ入ると、その湿気が少しだけ薄くなった。窓の開け方も、座布団の位置も、入口から香炉を置く場所までの空間も、月曜日に最後の確認をした時のままだ。


「神崎くん、こちらはどうかしら」


 桜小路先輩に呼ばれ、机の上へ意識を向ける。今日使う香と周囲の空気を順に確かめたが、今のところ邪魔になるような強い匂いはなかった。


「大丈夫です。入口側も、今なら問題ないです」


「ありがとう。では、あとは皆さんをお迎えしましょう」


 先輩はそう言って、手元の香道具へ戻った。柚木は入口の方で説明用の紙を見直し、星野は参加者へ渡す記録用の紙を揃えている。


 澄は座布団の列を一度見てから、入口脇へ移った。濡れた傘や鞄を置く場所を確認しているらしく、床に置かれた籠と座る位置の間を実際に歩いている。


「慧くん、ここ通れる?」


「通れる。傘が四本増えても、こっちには出ないと思う」


「うん。じゃあこのままにするね」


 それだけ確認すると、澄は別の座布団へ向かった。俺も香の近くへ戻る。


 今日は本番だが、今のところ昨日までと大きく違うことはない。五人しかいない作法室なら、誰がどこで動いているかも、どの匂いを無視していいかも、考える前にだいたい分かる。体験会全部を見るつもりはないが、自分の見る範囲だけは外したくなかった。


「来たよー」


 廊下から柚木の声がして、すぐに戸が開いた。雨で濡れた外気が、細い隙間から先に入り込む。


「失礼します」


 最初に入ってきたのは小坂だった。その後ろから、西垣、井川先輩、森谷と続く。


「優花、真由ちゃん、こっち。傘はそこに置いて大丈夫だから」


「ありがと。思ったよりちゃんとしてる部屋なんだね」


 小坂が室内を見回す横で、西垣は入口に置かれた説明の紙へ先に目を向けた。森谷は少し後ろから中を覗いていたが、星野を見つけると表情を緩める。


「佳帆、こっち」


「うん。なんか急に緊張してきたかも」


「私も最初そうだった。座ったらだいぶ普通になるよ」


「それ、くるみが言うとちょっと怪しいんだけど」


 森谷はそう言いながらも、星野の隣へ入ってくる。井川先輩は濡れた傘を入口脇へ置くと、桜小路先輩へ目を向けた。


「雅、ほんとにこういう部屋でやってたんだ」


「ええ。ようこそ、美晴さん」


「なんかその言い方だと、急にお客さんになった感じするね」


 桜小路先輩が笑って、四人へ座る場所を示した。柚木も話をつなぎながら中へ入り、澄は濡れた傘と鞄が通路へ出ないよう位置を整えている。


 そこまでは、金曜日に試した流れとほとんど同じだった。違ったのは、四人が戸をくぐった直後だった。


 湿った制服。雨を吸った傘。濡れた髪と靴。鞄に残った外気。洗剤や柔軟剤、整髪料、制汗剤、それに歩いてきた分の汗。


 どれか一つが強いわけじゃない。普通の高校生が四人、弱い雨の中を旧校舎まで歩いてここへ来た。その結果が、まとめて部屋へ入ってきただけだ。


 それでも、五人しかいなかった時とは空気の情報量がまるで違った。作法室そのものは整っているのに、普段なら背景に回せる匂いの中に、四人分の知らない匂いが混じっている。息が詰まるほどではないが、普段なら意識の外へ落とせるものが、今日は簡単に落ちてくれない。


「神崎?」


 柚木に呼ばれて顔を上げた。入口側に立ったまま、こっちを見ている。


「何でもない。そっちは?」


「四人とも座れたし大丈夫。そろそろ始めるって」


「ああ」


 返してから、もう一度室内へ意識を戻す。小坂の近くには濡れた布の匂いがあり、西垣の側では別の洗剤が混じる。森谷の呼吸はさっきより少し速いし、井川先輩からも歩いてきた後の発汗は拾えた。


 だが、それが何を意味するかまでは決められない。雨の中を歩いてきた。階段も上がった。湿度も高い。そもそも四人が普段どんな状態なのか、俺は知らない。


 知っている五人なら、いつもと同じ部分は背景に回せる。今日は違うと分かれば、その差だけ拾えばいい。


 知らない四人については、その「いつも」を俺が知らない。一人ずつ状態を追おうとすると、頭の中へ残る情報が増えていく。誰の呼吸がどう変わったか、どの匂いがどこから来たか、そんなものを追い始めれば、今日俺が見るはずだったものまで埋もれそうだった。


 俺は一度、入口側から香を扱う場所まで視線を動かした。濡れた傘は澄が決めた位置に収まり、香炉を置く側との間には距離がある。窓から入る湿った空気はあるが、今のところ香の近くに外から入った強い匂いはない。


 なら、見るのはそこまででいい。香の周りに何があるか。空気がどう動いているか。今日使う香に余計なものが混ざっていないか。


 意識する範囲をそこへ戻すと、消えたわけではない四人分の匂いが、少しだけ遠くなった。鼻が鈍くなったわけでも、部屋が元に戻ったわけでもない。ただ、全部を同時に追わなくて済む。


「それでは、始めましょうか」


 桜小路先輩の声で、四人も手元から顔を上げた。室内の視線が先輩へ集まる。


「今日は、五つの香りを順番に確かめていただきます。香りの名前を当てるものではありません。どれとどれが同じ香りだったか、その組み合わせを考えていただく遊びです」


「名前知らなくてもいいんだ」


 小坂が手元の紙を見ながら言う。西垣も同じ紙へ視線を落とした。


「ええ。最初は同じか違うかだけ考えていただければ大丈夫です」


 西垣は説明の紙と記録用紙を見比べてから、小さく頷いた。森谷は「五回か」と指で数え、井川先輩は桜小路先輩の手元を興味深そうに見ている。


「この組香を、源氏香といいます」


「へえ、それが名前なんだ」


 森谷の声に、星野が隣で頷いた。さっきまで室内を見回していた森谷の肩も、少しだけ下がっている。


「私も最初、名前だけ聞いても何するのか全然分かんなかった」


「じゃあ安心した」


「そこは安心するところ?」


 小さく笑いが起きる。柚木は参加者側に近い場所へ座り、星野も四人の様子を見られる位置に落ち着いた。


 澄は入口側を一度確認してから、道具を扱う手元と人の通り道を邪魔しない場所へ戻る。桜小路先輩の前には香道具が揃い、俺の前には香を扱う空間が残った。


 先輩の手が動き、最初の香が回り始める。さっきまで残っていた小さな会話も、自然に途切れた。


 香そのものは、きちんと拾えた。けれど、その後ろには湿った制服も、四人分の生活の匂いも、雨の空気も残っている。


 いつもの作法室と同じ余裕ではない。それでも俺は席を立たず、香の近くと、その周囲だけへ意識を絞った。


 小坂たちは順番に香を聞き、自分の記録へ視線を落としていく。まだ誰も答えを知っていないし、俺も四人の反応を追わない。


 見るべきものは、今ここにある香と、その周りの空気だけだった。知らない匂いが背景に残ったまま、それでも最初の一つは確かに届いている。準備してきた体験会は、もう始まっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。