第81話 紫陽花の午後と、それぞれの持ち場 2
柚木と星野が作っていた説明文は、さっきから三回くらい書き直されていた。紙の端には、消した跡と書き足した言葉が増えている。
「『香を聞いてもらいます』って、ここからもう分かりにくくない?」
「二日前の私なら、聞くって何ですかってなりますね。普通に嗅ぐじゃ駄目なのかなって」
「じゃあ最初は『香りを確かめてもらいます』でよくない? 言葉の説明はあとでいいし」
二人の間に置かれた紙へ、また線が引かれる。少し離れたところでは澄が座布団の位置を変え、桜小路先輩は使う道具を確認していた。
俺は先輩から渡された香を一つずつ確かめる。今のところ、余計な香りが移っているものはない。作法室の空気も、雨の日にしては十分落ち着いていた。
「……一度、通してみましょうか」
桜小路先輩の声に、全員の手が止まった。柚木も書き直しかけていた紙から顔を上げる。
「通すって、本番みたいにですか?」
「そこまできちんとしたものではなくて大丈夫よ。まだ途中ですから、むしろ途中のまま一度動いてみた方が、止まるところが分かるでしょう?」
先輩が入口へ目を向ける。説明文だけ読んでいても、それをいつ渡すのか、どこで聞くのかまでは決まらない。
「じゃあ、あたし案内やる」
柚木がすぐに立ち上がり、入口側へ回る。今直していた説明を、そのまま自分で試すつもりらしい。
「私が参加者側ですか?」
「星野さんがよければお願いできるかしら。何も知らないふりをする必要はないわ。二日前、自分が実際に迷ったところで止まってもらえれば十分よ」
「それならできます」
星野も立ち上がり、いったん作法室の外へ出た。戸が閉まって数秒もしないうちに、今度は参加者役として顔を出す。
「失礼しまーす」
「はい、どうぞ。まず荷物をこっちに置いて――」
柚木が入口脇を示し、そのまま座る場所まで案内する。星野は言われた通りに動き、座布団の前まで来たところで足を止めた。
「ここ、座っていいんですか?」
「え? うん」
「二日前の私なら、たぶん聞きます。どこに座っていいか分からなかったので」
「あー……そっか。部員なら空いてるところ座るもんね」
柚木は紙へ視線を落とし、最初に全部伝えるのをやめた。座る場所まで案内してから、必要なことだけ話す形へ直していく。
「じゃあ、最初は荷物と座る場所だけ。源氏香の説明は座ってからでいいか」
「その方が私は楽です。入口で一気に言われても、たぶん半分忘れます」
「それはくるみだけじゃない?」
「一般生徒代表として言ってます」
「代表に選ばれた覚えないでしょ」
二人が言い合っている間に、澄が入口から星野の座っている場所まで歩いた。途中で一度止まり、入口側へ戻って鞄を一つ置く。
「これ、荷物が増えたら通りにくいかも」
今は五人分しかないから余裕がある。ただ、同じ場所に何人分か増えれば、座る人と荷物を置く人が重なりそうだった。
「先輩。この辺、少し空けても大丈夫ですか?」
「ええ。ただ、こちらは道具を出す時に使うので、そこだけは残しておいてもらえる?」
「分かりました。じゃあ荷物はもう少し入口側に寄せます」
澄は道具そのものには触れず、座布団と荷物を置く位置だけを動かした。桜小路先輩も一度そこを歩いてから、道具を出す側の空間を確認する。
紙の上では問題なかった配置が、人が歩くと急に狭く見える。俺も入口から座る場所まで視線を追っているうちに、別の引っかかりに気づいた。
「先輩」
「なあに、神崎くん」
「荷物をそこまで寄せると、香を聞く場所に雨具の匂いが近いです。今日みたいな日は、濡れた傘とか鞄の匂いが残りやすいので」
さっき澄が荷物を寄せた場所そのものが悪いわけじゃない。香を聞く位置との距離が近すぎると、濡れたものから漂う匂いまで拾いやすくなる。
「なら、荷物はこっちまでで止めた方がいいかな」
澄が床を見ながら位置をずらす。俺もそこからもう一度確かめた。今度なら、さっきよりはましだった。
「神崎くんには、その辺りも見ていただけると助かるわ」
「分かりました」
答えてから、机の上に並んだ道具へ目を向ける。二日前、自分では確かだと思った香を一つ外したことが、そこで短く引っかかった。
長く考えるほどのことでもないが、香りに関係するなら、進め方や扱いまで自分でも重ねて確認しておいた方が確実なのかもしれない。少なくとも、今まではそういう範囲まで考えること自体がなかった。
「先輩。俺は、香と周りの匂いだけ見ればいいですか。進め方の方も確認した方がいいですか?」
桜小路先輩は少し考え、手元の道具へ視線を落とした。
「香の状態と、邪魔になる香りがないかを見ていただければ十分よ。進行と道具の扱い、安全の確認はこちらでします。神崎くんには、神崎くんの鼻でなければ拾いにくいところをお願いしたいの」
「……分かりました」
言われてみれば、その方が自然だった。先輩が確認する手順まで俺がなぞっても、鼻で拾えるものが増えるわけじゃない。
俺が見ればいいのは、実際に匂いとして確かめられるところまでだ。
「じゃあ、もう一回やってみよっか」
柚木の声で、星野がまた入口へ戻った。二度目は、一度目より止まる箇所が少なかった。
柚木は星野が座ってから必要なことだけ話し、星野も引っかかったところだけ口を挟む。澄はその間、人が通るたびに荷物や座布団の位置を見ていた。
桜小路先輩は道具と進行を見て、俺は濡れ物と香を聞く位置の距離だけ確かめる。
「さっきよりは、だいぶ自然ですね」
「うん。最初から全部説明しようとしない方がいいわ」
「私、今度は座るところで止まりませんでした」
「それはさっき直したからね」
「成果です」
「自分の成果みたいに言うじゃん」
まだ本番ではない。星野は完全な初参加者じゃないし、実際に何人か入れば、今日とは違うところで止まるかもしれない。
「今日はこのくらいにして、月曜日にもう一度最終確認をしましょう」
桜小路先輩が残っている紙をまとめる。今日のうちに決め切らない項目も、まだいくつか残っていた。
「柚木さんと星野さんは、今の説明をもう少し整えていただける? 真白さんは配置と動線をもう一度。神崎くんは香と周囲の香りをお願いするわ。わたくしは道具と進行を確認しておきます」
「了解です」
「はい」
返事が重なり、それぞれがさっきまで見ていたものへ戻っていく。柚木と星野はまた一枚の紙を挟み、澄は入口から座る場所まで歩き直している。桜小路先輩の手元では、道具の確認が続いていた。
俺の前に残ったのは、当日使う香と、その周りの空気だった。濡れた荷物との距離を一度確かめてから、目の前の香へ意識を戻す。
今は、そこを見ればいい。




