第80話 紫陽花の午後と、それぞれの持ち場 1
金曜の放課後になっても、朝から続いていた湿気はほとんど抜けていなかった。
雨そのものは弱くなっている。それでも廊下ですれ違う生徒からは、濡れた制服や傘、湿った髪に混じった整髪料の匂いが普段より重く残っていた。
作法室へ入って障子を閉めると、ようやく拾うものが減る。
「慧くん、お茶どうする?」
「もらう」
「今日は冷たい方?」
「ああ」
澄が水屋へ向かい、俺は鞄をいつもの場所へ置いた。
柚木と星野はすでに来ていて、窓際で何か話している。外では雨を吸った紫陽花が重そうに頭を下げていたが、星野の声は天気とは関係なく元気だった。
「だから、あれ絶対分かりにくかったんですって」
「くるみが途中まで聞いてなかっただけじゃない?」
「聞いてました。聞いた上で分からなかったんです」
「それ、威張って言うこと?」
「お二人とも、その話は少しあとでもできますよ」
桜小路先輩が苦笑しながら書類を手元へ置いた。
何かの申請書かと思ったが、先輩はすぐには説明しなかった。澄が戻ってきて全員に飲み物が行き渡り、いつもの放課後らしく少し雑談が続いてから、ようやく紙へ視線を落とす。
「来週の火曜日ですが、小規模に源氏香の体験会をしてみようと思っています」
「もう日程決まったんですか?」
柚木が身を乗り出す。
「ええ。17日なら、こちらも準備できそうですから。まずは一度、実際に一般の生徒を迎えてみたいの」
大規模に人を集める予定ではない。
香道部へ入りづらい生徒にも中を知ってもらい、前の監査で出た改善点を実際の活動へ反映する。今後もっと大きな催しをする前に、小さい規模で一度試す意味もあるらしい。
説明を終えると、桜小路先輩は手元の紙へ書き始めるのではなく、俺たちを見た。
「実際に初めての方へ体験していただくなら、何が必要だと思います?」
「香と道具」
とりあえず思いついたものを答える。
「そうですね。あとは一局をどう進めるか、でしょうか」
「説明も要りますよね」
柚木が続け、星野がその横で首を傾けた。
「説明って、どこからですか?」
「どこからって……源氏香のやり方?」
「それだと多分、私みたいな人は最初から止まります」
星野が妙にきっぱり言った。
「二日前も、最初は何を覚えればいいのか分かんなかったんですよ。香の名前なのか、順番なのか、図なのか。途中で『同じか違うか考えればいい』って分かってからは普通に楽しかったですけど」
「あー、それはあるかも」
柚木が頷く。
「香道部側は流れ分かってるからさ。『じゃあ始めます』って言われても、初めて来た人からしたら、その前に『私、今から何すればいいの?』ってなると思う」
「なるほど」
桜小路先輩が紙に何かを書き加えた。
「専門用語も、できるだけ最初から知っている前提にしない方がよさそうですね」
「あと、間違えたらダメなのかなって思いました」
「私、最初は作法を間違える方が気になってましたし。答え外すのは途中からどうでもよくなりましたけど」
「お前、最後は当てる気満々だっただろ」
「それとこれとは別です」
「どう別なんだよ」
「気持ちの問題です」
便利な言葉だった。
ただ、言っていること自体は分かる。
「そういえば、答えってどこに書いてもらうんですか?」
星野がふと思い出したように聞いた。
「前みたいに紙?」
「それも決めておく必要がありますね。初めての方でも迷わない形にしましょう」
「だったら、その説明も一緒に入れた方がよくない?」
柚木が星野の方を見た。
「最初に何をするか分かって、そのまま答えるところまで迷わないように」
「それなら分かりやすそうです」
香と道具だけでは、初めて来る側には足りないらしい。
「じゃあ、最初に簡単な説明があった方がいいね。全部覚えなくても参加できるって分かる感じの」
柚木がそう言うと、桜小路先輩は頷いた。
「柚木さんと星野さん、少し考えていただけますか? 二日前に初めて体験した時、何が分かりにくかったのかも含めて」
「はい。くるみ、覚えてるうちに書こ」
「柚木先輩も初めて側ですよね?」
「そうだけど、あたしは途中から結構ついていけてたし」
「今の言い方、ちょっと先輩風吹かせてません?」
「吹かせてないから」
二人が紙を寄せる横で、澄が作法室の入口へ目を向けた。
「先輩。人が来るなら、傘とか鞄を置くところも決めておいた方がいいかもしれません」
桜小路先輩も入口を見る。
今は五人分の荷物しかない。それでも雨の日は傘が増え、濡れた上着を持ってくる人もいる。
「ここにまとめると、出入りする時に少し狭くなりそうです」
澄は立ち上がると入口の近くまで歩き、そこから室内を見回した。
「道具を置く場所と、人が通るところもあまり重ならない方がいいと思います。初めて来た人だと、どこに座ればいいかも分からないだろうし」
「確かにそうですね。普段は皆さん、もう勝手が分かっていますから」
「人数が多すぎると、動きにくくなりそうです」
「そこも考えた方がいいですね」
桜小路先輩の紙には、話が進むたびに書き込みが増えていく。
「神崎くんにも、一つお願いしてよろしいかしら」
「何ですか」
「当日使う香について、余計な香りが移っていないかなど、事前に一緒に確認していただきたいの。もちろん、最終的な準備はこちらでも確認します」
机の上へ視線を落とす。
二日前、自信を持って判断した香を一つ外したことは覚えている。だからといって、今ある香まで全部疑う気にはならなかった。
実際に拾えるものまでなくなったわけじゃない。
「それならできます」
「ありがとうございます」
自分の鼻で分かる範囲なら、確認しておいた方がいい。
それくらいだった。
「じゃ、これどう書く?」
柚木の声に視線を向けると、星野と一枚の紙を挟んでいた。
「『作法を知らなくても大丈夫です』でよくない?」
「それだけだと逆に、何か作法があるって意識しません?」
「じゃあ、くるみなら何て言われたら安心した?」
「えー……『最初に説明するので覚えてこなくて大丈夫です』とか?」
「そっちの方が自然かも」
二人が文章を直している間に、澄は座る位置を変えながら入口からの動きを確認していた。
「ここに荷物を置くなら、この辺は空けておいた方がいいかな」
「真白さん、その位置なら道具を出す時にも邪魔にならなさそうですね」
「じゃあ一度、そこに置く想定で見てみます」
桜小路先輩も自分の紙と室内を交互に見ながら、必要な道具を確認している。
気づけば、もう誰も最初のように座って話していなかった。
柚木と星野は説明文を読み上げては止まり、澄は作法室の中を歩いている。桜小路先輩はその間にも二人へ確認を入れたり、澄のところへ行ったりしていた。
俺も頼まれたものを確認するため、先輩が出した香の方へ手を伸ばす。
一つ体験会をやるだけなのに、思ったよりやることが多い。
窓の外では、葉の先から雨粒が落ちていた。さっきまで予定について話していたはずの作法室では、もう次の火曜日に向けた準備が始まっていた。




