第79話 青梅雨の香席と、乱れた香図 3
香炉の前では、桜小路先輩が使い終えた道具を確認している。柚木は持っていた紙を先輩の近くへ置き、澄も集めたものを順に片付けていた。
「玲奈ちゃん、その紙はこっちに重ねて」
「了解。あ、これも?」
「うん、それも」
俺も手元に残っていた紙を揃え、空いた箱へ入れた。
「少し休憩にしましょうか。続けるにしても、その後で」
桜小路先輩の言葉に、柚木がすぐ賛成した。
「さんせー。思ったより頭使った」
「柚木先輩、二か所間違えただけじゃないですか」
「その二か所を悩んだの。くるみも一個間違えてたでしょ」
「それはもう終わった話です」
「さっき自分からばらしたのに?」
「記憶から消してください」
「無茶言うな」
さっきまで妙に引っかかっていた星野も、今はもういつもの調子だった。なら、俺が気にすることもない。
片付けが一段落して部屋を見回す。今まで座っていた場所の近くにも空きがあるし、少し離れれば一人で座れる。柚木と星野はさっきの話を続けながら並び、桜小路先輩の近くにも場所は残っていた。
澄は少し離れた壁際で、自分の湯呑みを手元へ置いている。
俺はすぐ近くの空いた座布団を一度見たあと、そちらへは座らなかった。
今日は朝から余計なものを拾いすぎた。源氏香まで終わった今は、少し休みたい。
数歩歩いて、澄の近くに空いていた場所へ座る。
澄が顔を上げた。
「慧くん、お茶いる?」
「ああ」
近くに置いてあった急須から、澄が湯呑みに茶を注ぐ。受け取ると、薄い湯気が上がった。
「ありがと」
「うん」
澄も自分の湯呑みへ手を戻した。
近くにいても、昔から知っている相手なら楽だった。動き方も、使うものも、大体分かっている。俺が黙っていればそのままにしておくし、何かあれば声をかける。
今はそれくらいでちょうどいい。
「神崎先輩」
湯呑みに口をつけたところで、星野に呼ばれた。
「何」
「結局、そこ行くんですね」
星野は少し離れたところから、俺と澄を交互に見ている。
「そこって?」
「真白先輩のところです。さっき、先輩のすぐ近くにも空いてましたよね」
言われてそちらを見る。さっき立っていた場所の近くには、今も空いた座布団が残っていた。
「ここが一番楽だから」
「……そういう答えなんですね」
「他に何があるんだよ」
「いえ。別に」
星野はそれ以上続けず、自分の湯呑みへ手を伸ばした。少しだけ何か言いたそうな顔には見えたが、今の俺がそこまで考えても仕方がない。
「くるみ、今度は何?」
柚木が横から聞く。
「何でもないですよ」
「その言い方、絶対なんかあるじゃん」
「ないですって。柚木先輩、さっきから人のこと気にしすぎです」
「いや、あんたが分かりやすいの」
「それ、今日の神崎先輩の前でも言えます?」
「言えるけど?」
「俺を巻き込むな」
二人がまた言い合い始める。桜小路先輩はその様子を見て少し笑いながら、使い終えた道具の確認を続けていた。
「皆さん、元気ね。もう一局やるなら、もう少し休んでからにしましょう」
「次は当てたいです」
「柚木先輩、さっき頭使ったって言ってませんでした?」
「休んだら回復するから」
「便利ですね」
「若いからね」
「一個しか違わないですよね?」
星野が即座に返し、柚木が「そこ?」と笑った。さっきまで香を聞くために静かだった作法室は、もう普段の放課後に戻っている。
俺は湯呑みを置き、壁に軽く背を預けた。
窓の向こうでは細い雨が続いている。近くでは澄が自分の湯呑みに口をつけ、その向こうでは柚木と星野がまだ源氏香の話をしていた。
「慧くん、少し眠そう」
「眠くはない」
「疲れた?」
「少し」
「そっか」
澄はそれ以上聞かず、お茶を飲む。俺もそのまま壁へ背を預けていた。
柚木と星野の声、桜小路先輩が道具を置く小さな音、窓の外の雨音が、作法室の中でゆるく重なっている。
星野に言われるまで、自分からここへ来たことなんて考えてもいなかった。考えたあとも、移動する理由は特に思いつかなかった。




