第78話 青梅雨の香席と、乱れた香図 2
自分の香図から目を離した。
第四香と第五香をつないだ一本は、何度見ても消えない。俺がそう聞き取って、自分で引いた線だ。
だからといって、今ここで紙を睨み続けても答えは増えない。
「それでは、一局目はここまでにしましょうか」
桜小路先輩が答えの紙を脇へ置いた。
「思ってたより難しいね、これ」
柚木が自分の回答用紙を見直しながら言う。
「柚木先輩、始まる前は結構いけそうな顔してましたけど」
「初めてなんだから仕方ないでしょ」
「それはそうですね」
星野が笑ってから、俺の手元へちらりと視線を落とした。
さっきまで香図へ集まっていた視線が散っていく。
俺も紙を手元へ寄せた。
一度間違えただけだ。それ以上でも以下でもない。鼻が使えなくなったわけでもなければ、今まで拾っていたものが全部間違っていたことになるわけでもない。
ただ、確かだと思ったものが一つ外れた。
そこだけは残る。
「神崎先輩」
顔を上げると、星野が自分の回答用紙へ手を置いていた。
さっきまで柚木の紙を覗こうとしていたくせに、自分のものは妙に手元へ引いている。
「何」
「ちなみに私、全部合ってましたよ」
「そうか」
「……はい」
「すごいな」
星野が瞬きをした。
何かおかしなことを言っただろうか。
「先輩より上でした」
「そうなるな」
「私の勝ちですね」
「勝負だったのか?」
「今、そういうことにしました」
「後付けじゃねえか」
「勝ちは勝ちです」
口元は笑っているし、声もいつもの調子だ。回答用紙をこっちへ見せないのは、さっき柚木にやったことをやり返されたくないだけかもしれない。
他にも、細かな違いならいくつか拾える。言葉を置いてから返事を待つまでのわずかな間、呼吸の速さ、答え合わせの時から残っている汗や匂いの立ち方の変化。
でも、それが何を意味するのかは別の話だ。
全問正解して俺をからかっているなら、それだけでも普段とは反応が変わる。何か仕掛けている可能性もあるし、単に結果がよくて気分が上がっているだけかもしれない。今の俺が、その差をちゃんと分けられているのかも分からない。
それに――どうでもいい。
源氏香の結果で星野が一個多く正解していたところで、誰も困らない。本人が全部合ったと言うなら、それでいい。
「初めてで全問正解なら、星野さんは筋がいいのかもしれないわね」
桜小路先輩が言った。
「ほら、部長のお墨付きですよ」
「よかったな」
「……ありがとうございます」
星野の返事が、少し遅れた。
俺は紙を畳んで脇へ置く。
桜小路先輩は使い終わったものを確認し、澄もそちらを手伝い始めていた。
「玲奈ちゃん、そっちの紙まとめてもらえる?」
「うん。これでいい?」
「ありがとう」
俺も近くにあった自分の分をまとめる。
いつまでも一本の線だけ見ていても仕方がない。
「……先輩」
また星野の声がした。
「今度は何だ」
「何かないんですか?」
「何が」
「いえ……」
星野は言いかけて、口を閉じた。
俺を見ている。
さっきから回答用紙も片付けず、自分の前に置いたままだ。
「勝ったんだろ。よかったじゃないか」
「そうなんですけど」
「ならいいだろ」
「そうなんですけどね」
同じことを二回言ってから、星野が紙の端を指で押さえた。
俺は手元の紙をまとめ直す。
少し待っても、続きは来なかった。
何なんだ。
「……あの、先輩」
三度目だった。
さすがに手を止める。
「だから何だよ」
「私、一個間違えてました」
「……は?」
「一個だけです。一個だけ」
星野が自分の回答用紙を持ち上げた。
今度は隠さない。
桜小路先輩が示した正解と見比べれば、確かに一か所違う。
「じゃあ、さっきのは」
「嘘です」
あっさり言った。
「全部合ってたってやつ?」
柚木がすぐに食いつく。
「はい」
「なんで?」
「ちょっと試しただけですよ」
「何を」
柚木の問いに、星野がちらりと俺を見る。
「今日なら神崎先輩にも一回くらい通るかなって」
なるほど。そこは分かる。
普段から星野は、こっちの反応を先回りして何か仕掛けてくる。意味ありげな言い方をしたり、わざと誤解させるような言葉を選んだり。
大抵は本人の方が先に何か出すから、そのまま通ったことはあまりない。
今日は俺が実際に一つ外した。それを見て、試した。
そこまでは何もおかしくない。
「じゃあ成功しただろ」
「……しましたね」
「何で自分からばらすんだよ」
星野が止まった。
嘘を通すことが目的なら、黙っていればいい。俺は普通に信じていたし、少なくとも、わざわざ否定する理由はなかった。
「それ、あたしも思った」
柚木が横から言う。
「せっかく神崎騙せたのに。何のために言ったの?」
「何のためって……」
星野が自分の紙を見る。
それから俺へ視線を戻した。
「先輩が、本当に普通に信じるとは思わなかったので」
「騙そうとしたんだろ」
「そうなんですけど」
「じゃあ成功じゃん」
「柚木先輩まで同じこと言わないでください」
「だってそうじゃん」
「そうなんですけどね」
またそれだ。嘘は成功したのに、自分から種を明かした。しかも、ばらした後の方がさっきより星野の調子が戻っている。
理由が分からない。何か別の狙いがあったのかとも思ったが、本人がここまで簡単に嘘を潰している以上、大した話でもなさそうだ。
「星野」
「はい?」
「今日はいつにも増して意味分からないぞ」
「失礼ですね」
「お前が始めたんだろ」
「先輩がちゃんとしてないからです」
「俺のせいになった」
「一個外したじゃないですか」
「お前もだろ」
「私は先輩を騙すために必要だったんです」
「間違えたのが?」
「そこは予定外です」
「駄目じゃねえか」
柚木が笑った。
星野は不満そうにこちらを見る。その顔も長くは続かず、すぐにいつもの調子へ戻った。
「まあ、今回は練習ってことで」
「何の練習だよ」
「次はもっと上手くやります」
「予告した時点で警戒されるだろ」
「予告じゃありません。宣戦布告です」
「余計悪い」
「忘れてください」
「無茶言うな」
「先輩、都合の悪いことは結構忘れるじゃないですか」
「何の話だ」
「そういうところです」
また意味が分からない。
ただ、さっきまで妙に止まっていた星野が普通に喋り始めたなら、それでいいか。
「くるみちゃん、それ片付けるならこっちへお願い」
澄が声をかけた。
「あ、はい」
星野がようやく回答用紙を手放した。桜小路先輩は香炉の方へ戻り、柚木も集めた紙を持って立ち上がる。
一局の間だけ決まっていた五人の位置が、少しずつ崩れていく。俺も座っていた場所から立った。
次にどこへ座るかは、もう決まっていなかった。




