第77話 青梅雨の香席と、乱れた香図 1
最初の香を聞き終える。
香炉が次へ回り、二つ目が来た。
さっきとは違う。何の香木なのかまでは考えない。そう決めた以上、必要なのは最初との関係だけだ。
二つ目は別。
三つ目も違った。
普段なら、匂いを拾った瞬間に何の系統か、どこが違うのかまで勝手に意識が向く。その手前で止めて、同じか違うかだけを見る。
思ったより簡単だった。
四つ目が回ってくる。これも、それまでの三つとは違う。
迷うほどではない。
五つ目。
同じように香を聞いた瞬間、頭の中でそれまでの四つと照らし合わせる。一つだけ、すぐにつながった。
四つ目。
細かな情報を一つずつ比べ直す必要もなかった。
四と五は同じ。
そう判断して、香炉を次へ送る。
五つすべてを聞き終えると、作法室の中に少しだけ声が戻った。
「待って。三つ目どっちだっけ」
柚木が自分の紙を見ながら眉を寄せている。
「聞いた時に覚えておかないと駄目なんじゃないですか?」
星野が横から覗こうとして、柚木が紙を手で隠した。
「見ないでよ。今思い出してるから」
「見てませんって」
「その顔は見ようとしてた」
「濡れ衣です」
「香席で濡れ衣って言うと、今日ちょっとややこしいな」
俺が言うと、二人が同時にこっちを見た。
「神崎、そういうの拾うんだ」
「先輩、意外と余裕ありますね」
「何の話だよ」
別に難しいことはしていない。聞いたものを紙へ移すだけだ。
第一香、第二香、第三香。それぞれの線は離したままにする。第四香も別。
第五香だけ、第四香と同じ位置でつなぐ。紙の上では、最後の二本だけが上でつながった。
これで終わりだ。
「皆さん、書けたかしら?」
桜小路先輩が声をかける。
「たぶん!」
柚木が真っ先に答えた。
「たぶんは書けたに入るんですか?」
「空欄ないから入るでしょ」
「強い理論ですね」
星野も自分の紙を伏せ気味に置いた。澄は少し離れたところで、書き終えた紙から手を離している。
「慧くんも終わった?」
「ああ」
「じゃあ全員だね」
桜小路先輩が俺たちの様子を確かめてから、脇に伏せていた一枚の紙を手に取った。始める前に、今回使う五つの組み合わせを記録していたものだ。
「それでは、答え合わせをしましょう」
柚木が姿勢を直す。星野もさっきまでの軽口を止めて、先輩の手元を見た。
「今回の五つは――すべて違う香よ」
一瞬、意味が頭に入らなかった。
先輩が示した香図には、つながった線が一つもない。第一香から第五香まで、全部が離れている。
「あー、やっぱそこ違った!」
柚木の声がする。
「私も一個怪しいと思ったんですよね」
星野も自分の紙へ目を落とした。
俺は何も言わず、手元を見た。
一本だけ多い。
第四香と第五香。俺の紙では、その二本がつながっている。先輩の示した答えでは離れていた。
もう一度、自分の紙を見る。
四と五。
間違いなく、そこをつないでいる。
「神崎?」
柚木に呼ばれて顔を上げた。
「何」
「そこ、つないだ?」
「ああ」
柚木が少し目を丸くした。
「へえ。神崎でも外すんだ」
「外すだろ」
「いや、そりゃそうなんだけど。匂い関係だとなんか意外」
「先輩にも普通のところがあったんですね」
星野まで乗ってくる。
「お前ら俺を何だと思ってるんだ」
「鼻だけ別枠の人?」
「それ褒めてないだろ」
「半分くらいは褒めてます」
「残り半分は何だよ」
星野は答えずに笑った。柚木も自分の結果に戻っている。
「うわ、あたしこっちも違うじゃん」
「柚木先輩、さっき自信ありそうでしたよね」
「それ今言う?」
「答え合わせ終わったので」
二人のやり取りを聞きながら、もう一度紙を見る。
書き間違えた。
最初に浮かんだのは、それだった。第四香と第五香をつなぐつもりはなかったのに、線だけ間違えた可能性。
違う。
聞いた順番を一つずらしたか。
それも違う。
第一から第五まで、順番は覚えている。何より、第五香を聞いた時の判断そのものが残っていた。
四つ目と同じだ。
俺はそう思った。迷った末に選んだわけでもない。似ている二つを無理にどちらかへ寄せたわけでもない。
普通に聞いて、普通に同じだと判断した。
それが違っていた。
「神崎くんは一か所だけね」
桜小路先輩が結果を確認して言う。
「はい」
「初めてなら十分よ。香木のことを知っていても、実際に五つを聞き分けられるかは別だから」
声はいつもと変わらない。慰めるでもなく、何かがおかしいと騒ぐでもない。一局の結果として扱っている。
当然だ。源氏香で一つ外した。外から見れば、それだけの話だ。
「慧くん?」
澄の声で視線を上げる。
「どうした」
「ううん。紙、ずっと見てたから」
俺は自分の香図へ目を戻した。
「ちょっと気になっただけ」
「そっか」
澄もそれ以上は聞かなかった。
桜小路先輩が今回の香図について話し始める。柚木が途中で質問し、星野が自分の紙を見ながら何か言っている。
俺は先輩の声を聞きながら、手元へ視線を落とした。
それなのに、一本の線だけが妙に目についた。
二日前から、匂いが重なると整理に時間がかかっている。そこはもう分かっている。
判断しづらい時は決めない。必要のないものまで追わない。作法室みたいに入力が少ない場所なら、遅れても追いつける。
それで今日は普通に過ごせていた。
けれど今回は、そのやり方では防げなかった。第四香と第五香を、判断しづらいとは感じなかったからだ。
同じだと思って線をつないだ。
それが外れた。
(……面倒だな)
全部駄目なら話は簡単だった。今は鼻の調子が悪い。それなら使わなければいい。
明らかに曖昧なら、その時だけ保留すればいい。でも、第一香から第三香までの判断は合っている。外れたのは一組だけだ。
使えるか、使えないか。その二つだけでは整理できない。
一度外しただけで、鼻が信用できないと決めるつもりもない。そんな結論を出せるほど材料はまだない。
今日の状態で、たまたま一度間違えただけかもしれない。次は普通に合うかもしれない。
今分かっているのは一つだけだ。
今日の俺は、自分で確かだと思った判断を一度外した。
それだけ。
「神崎、聞いてる?」
柚木の声が飛んできた。
「聞いてる」
「ほんとに?」
「お前が二か所間違えた話だろ」
「そこじゃないし!」
星野が吹き出す。
「ちゃんと聞いてるじゃないですか」
「だから言っただろ」
「神崎くん」
桜小路先輩が少し笑っている。
「柚木さんの名誉のためにも、そこは忘れてあげなさいな」
「先輩まで!」
作法室に笑い声が広がった。窓の外では、まだ細い雨が降っている。
一局は普通に終わった。
俺も紙を片付けようとして、最後にもう一度だけ香図を見る。
正解では離れている二本。俺の紙では、そこだけがつながっていた。
たった一本。
それだけなのに。
自分の鼻で確かだと思えたなら、その判断は信じていい――今までは、そう思っていた。
ほとんど考える必要すらなかったその前提に、小さな疑問だけが残った。




