第76話 湿風の教室と、重なる気配 4
水曜になっても、雨は残っていた。
朝から降ったり止んだりを繰り返している。窓の外は明るいのに、空気だけは二日前と同じように湿っていた。
二年三組にも、濡れた傘と制服、柔軟剤、制汗剤、それから汗の匂いが重なっている。
条件だけ見れば、月曜と大して変わらない。
ただ、今日はもう、その全部を追ってはいなかった。
近くで誰かが席を立つ。別のやつが通路を横切る。
いくつかの匂いが重なれば、今でも分かれるまで少し時間がかかる。
必要がなければ、そのまま流す。
黒板では教師が数式を書いていた。
そっちを見ていればいい。
「神崎、そこ次」
「ああ」
指された箇所を答える。
教師がそのまま次の説明へ進んだ。
授業は普通に受けられるし、昼休みには柚木とも話した。鼻の状態を確かめるために、教室の匂いを片っ端から拾うこともしていない。
鼻が元に戻ったわけじゃない。
梅雨の日は、こういうものとして扱えばいい。
少なくとも今は、それで困らなかった。
放課後。
旧校舎へ向かう渡り廊下の窓に、細かな雨粒がついていた。
作法室へ入ると、先に来ていた星野が入口脇で傘をまとめている。
「こんにちは、神崎先輩」
「こんにちは」
「そこ、濡れてるので踏まないでくださいね」
「見れば分かる」
「そこは普通に『ありがとう』でよくないですか?」
星野が雑巾を持ったまま口を尖らせる。
奥では柚木が鞄を置いていた。
「神崎、おつかれー」
「ああ」
「今日も鼻、省エネ?」
「普通」
「それ省エネ継続してるってことじゃない?」
「うるさい」
柚木が笑う。
俺も空いている場所へ鞄を置いた。
月曜に入口側へ寄せた濡れ物は、今日は最初からそこへ集まっている。
柚木も自分の傘を置き、星野も鞄の底が濡れていないか確認していた。澄は窓と空調を見たあと、そのまま自分の荷物を片付ける。
入口周りは、誰かが一から指示しなくても勝手に整っていった。
空気にはまだ湿り気があるし、五人分の生活臭もある。
それでも教室よりずっと単純だった。
濡れた傘や鞄は離れている。人の出入りもほとんどない。
誰かの匂いが重なっても、そのあとから別の十人分が続けて割り込んでくることもない。
今の状態だと、教室では重なった匂いの分離が遅れる。
ここなら、その間に追いつける。
「皆さん、少しいいかしら」
桜小路先輩の声で、柚木が振り向いた。
「今日は何するんです?」
「源氏香をやってみようと思っているの」
「げんじこう?」
星野が雑巾を置いて首を傾げる。
俺も名前だけでは分からなかった。
「香りを当てるんですか?」
柚木が訊く。
「当てる、という言い方だと少し違うかもしれないわね」
桜小路先輩はそう言って、用意していた紙を一枚持ち上げた。
「五つの香を順番に聞いて、その五つが互いに同じ香なのか、それとも違う香なのか。その組み合わせを見るの」
「名前は当てないんですか?」
「ええ」
先輩が頷く。
「どの香木なのか、何という銘なのかを答えることが目的ではないのよ」
五つ聞く。
普通に考えれば、それぞれを識別するものだと思っていた。
「じゃあ、例えば一個目と三個目が同じだったら、それを答えるってことですか?」
星野が指で一と三を作る。
「そういうことね。二つだけ同じかもしれないし、別の組み合わせかもしれない。五つすべて違う場合もあるわ」
「へえ。ゲームっぽい」
柚木が紙を覗き込んだ。
「でも、それなら香りの名前とか知らなくてもできる?」
「できるわよ」
「それいいじゃん」
柚木がすぐに笑う。
「初心者でも参加できるやつだ」
「私もそれなら何とかなりそうです」
星野も少し身を乗り出した。
「香道ってもっと、香りの名前いっぱい覚えてからじゃないと何もできないのかと思ってました」
「知識があることで楽しめる部分ももちろんあるけれど、それだけではないの」
先輩が別の紙を広げる。
縦に並んだ線が、上の方でつながったり離れたりしていた。
「五つの香の同じ、違うを線で表したものを香図と呼ぶの。組み合わせは五十二通りあって、それぞれ『源氏物語』の帖名と結び付けられているわ」
「五十二?」
柚木が紙を見直す。
「急に多くない?」
「全部覚える必要はないわよ」
「ですよね」
「今、ちょっと覚えさせられる顔してましたよ」
星野が横から言う。
「してないし」
「しました」
「してないって」
始まってもいないのに騒がしい。
ただ、紙に並んだ図は少し面白かった。
普段の俺は、匂いを拾えばまず発生源を考える。
誰のものか。何についたものか。どこから来たのか。
源氏香では、そこまで分からなくても構わない。
必要なのは、五つの間に同じものがあるかどうか。
正体ではなく、関係だけを見る。
妙な感じだった。
答えを減らしているのに、問題としては成立している。
「……同じか違うかだけでいいんですね」
俺が言うと、桜小路先輩がこちらを見る。
「ええ。神崎くんには、少し変わった聞き方に感じるかしら」
「普段は、何の匂いかとか、どこから来たものかを考えることが多いので」
「あー」
柚木が納得したように頷く。
「神崎って、だいたい出どころ探してるもんね」
「探してるわけじゃない。分かるから考えるだけだ」
「それ一般人からしたら大体同じだから」
そうかもしれない。
「面白そうですね」
星野が香図を見ながら言う。
「線つながったら、見た目で答え分かるのもいいです」
「答えを見るのは最後よ」
「分かってますって」
「今の絶対先に見ようとしてたでしょ」
柚木が笑う。
「してません」
「した顔だった」
「柚木先輩まで」
その横で澄も紙を見ていた。
「これ、五人ともやるんですよね?」
「もちろん。そのつもりよ」
桜小路先輩が答える。
「わたくしだけが進めて、皆さんに見てもらうだけではつまらないでしょう?」
「よかった」
澄が柔らかく笑った。
五人とも参加するらしい。
その方が気楽だった。
聞くのは五つの香だけだ。
誰かが歩き回る教室から、特定の匂いを拾う必要もない。外から持ち込まれた濡れ物は離してあるし、作法室の中もさっきから落ち着いている。
しかも、何の香りかまで当てなくていい。
同じか、違うか。
比較する対象が最初から決まっている。
(これなら問題ないか)
桜小路先輩が必要なものを整え始めた。
俺たちもそれぞれ指示された準備をする。
さっきまで柚木と星野が騒いでいたのに、始まるとなれば少しずつ声が減っていく。
外ではまだ雨が降っていた。
細かな水音が窓の向こうから聞こえる。
湿った空気も、人がいる気配も消えたわけじゃない。
それでも、これから聞く香へ意識を向けるには十分静かだった。
「では、始めましょうか」
桜小路先輩の声がした。
最初の香が回ってくる。
俺はいつもの癖で、何の香りなのかを考えかけた。
そこで止める。
今日は、それを答える必要はない。
何か、じゃない。
次に来るものと、同じか違うか。
それだけ見ればいい。
俺は最初の香を聞いた。




