第75話 湿風の教室と、重なる気配 3
旧校舎へ向かう頃にも、雨は止んでいなかった。
朝からずっと同じような細い雨だ。
渡り廊下の窓には水滴が残り、すれ違う生徒の制服にもまだ湿気がまとわりついている。
ただ、教室を出てからはだいぶ楽だった。
人数が減った分、入ってくるものも減っている。
前を歩く生徒から湿ったシャツと整髪料。その後ろを横切った別の生徒から、雨を吸った鞄と汗。
一瞬重なれば、やっぱりすぐには分かれない。
でも、今日はもう追わない。
誰のものか知る必要がないなら、そのまま流せばいい。
午前中に比べれば、それだけでもだいぶ違った。
旧校舎へ入り、作法室の戸を開ける。
「こんにちは」
先に来ていた星野が振り返った。
「神崎先輩、今日は一人なんですね」
「途中まで一緒に来る必要ないだろ」
「そこ、もうちょっと寂しがってもいいところじゃないですか?」
「何で」
「ですよねー」
予想どおりだったらしい。星野は軽く肩をすくめて、持っていたタオルを鞄の上へ置いた。
奥では桜小路先輩が何枚かの紙を確認している。
「こんにちは、神崎くん」
「こんにちは」
教室とは違う。
まず人が少ない。
出入りも少なく、強い香料を使うやつもいない。空調の効いた室内は、本棟よりずっと空気が落ち着いていた。
息を吸う。
少なくとも、教室にいる時よりは楽だ。
ただし。
(……ゼロにはならないか)
入口近くには、星野が持ってきた濡れた傘がある。
星野の鞄や髪にも、外の湿気が残っている。
先輩の荷物にも同じように雨の気配が残っていた。
量は少ない。
だから、一つずつなら問題ない。
けれど星野が俺の横を通ったところへ、先輩が入口側へ歩いてくると、一度それぞれの境界が薄くなった。
遅れて分かれる。
午前中と同じだ。
俺は鞄を置いた。
作法室だから鼻が元へ戻るわけじゃない。
当たり前の話だった。
「慧くん」
後ろから声がして振り向く。
澄が入ってきた。
「先来てたんだ」
「ああ」
「玲奈ちゃんは?」
「友達と話してた。あとで来るって」
「そっか」
澄はそう言って自分の鞄を置きかけ、それから入口の方へ目を向けた。
星野の傘。
自分の傘。
俺の鞄。
先輩の荷物。
濡れたものが、それぞれ別の場所に残っている。
そこから窓と空調へ視線を移した。
「先輩」
「なあに、真白さん」
「濡れたもの、入口側にまとめませんか? 今、座るところの近くにも散ってるので」
桜小路先輩も部屋を見回す。
「そうね。その方が使いやすそうだわ」
「空調も、少し除湿を強くしていいですか?」
「ええ。寒くなるようならまた戻しましょう」
「はい」
話が決まると、澄は自分の傘を入口側へ移した。
澄は俺の鞄へ目を向けた。
「慧くん、それ外側まだ濡れてる?」
「少し」
「じゃあ、こっち寄せた方がよさそう」
「ああ」
自分で持って移動する。
「あ、私のも動かします」
星野も立ち上がった。
「こっちでいいですか?」
「うん。そこなら大丈夫そう」
「了解です」
戸が開く。
「こんちはー……って、何してんの?」
柚木だった。
片手に鞄を持ったまま、入口周辺に集まり始めた荷物を見る。
「濡れたものをこっちにまとめてる」
澄が答えた。
「あー、なるほど。あたしの傘もそっち?」
「うん。あと鞄、下ちょっと濡れてるかも」
「マジ?」
柚木が鞄の底を確認する。
「ほんとだ。危な」
「拭く?」
「タオルあるから平気。ありがと」
それぞれが動き出す。
桜小路先輩は机の上に広げていた紙をまとめ、荷物を置く側と実際に使う場所が重ならないよう少し位置を変えた。
星野は自分の傘を移したついでに、入口近くの水滴を拭いている。
柚木も自分の鞄を拭き終えると、そのまま澄に声をかけた。
「これ、こっち置いた方が邪魔じゃない?」
「そっちなら大丈夫」
「おっけー」
別に大がかりなことはしていない。
ただ、さっきまで部屋の何箇所かに散っていた雨の日の匂いが、入口側へ寄っていく。
空調の音が少し変わった。
湿気を含んだ空気そのものがすぐ消えるわけじゃない。それでも、濡れた布や鞄の匂いが座る場所の近くに残り続けることはなくなった。
俺も空いている場所へ座る。
「神崎くん、こちらをお願いしてもいいかしら」
桜小路先輩が紙の束を差し出した。
「これを順番どおりに揃えればいいですか」
「ええ。急がなくて大丈夫よ」
「分かりました」
紙なら匂いを判別する必要もない。
俺は一枚ずつ番号を確認して、束を揃えていく。
その向こうでは、柚木が別の紙を読んでいた。
「桜小路先輩、ここ初めて見る人だと分かりづらくないです?」
「どの辺りかしら」
「この説明。経験ある前提っぽく見えるかも」
「なるほど。柚木さんなら、どう書いてあると分かりやすい?」
「んー……」
柚木が紙を持ったまま考え始める。
星野はその横で鞄からノートを出した。
「私、先に課題やっててもいいですか?」
「もちろんよ」
「やった。今日ちょっと多いんですよね」
「部活来る前にやればよかっただろ」
「放課後まで未来の私に期待してたんです」
「裏切られてるじゃないか」
「今から挽回します」
本当にノートを開き始めた。
澄は空調を確認したあと、棚の方へ移動している。
俺は手元の紙へ視線を戻した。
いつもの部活だった。
紙を一枚めくる。
柚木が桜小路先輩の近くへ移動した。
その瞬間、二人分の匂いが重なる。
一拍。
やっぱり遅い。
けれど、そこで終わった。
二人がそのまま話している間に、それぞれの位置へまとまっていく。
入口にある濡れた鞄や傘の匂いまで、同じ場所へ何度も流れ込んではこない。
(……なるほど)
鼻の状態が戻ったわけじゃない。俺が急に速くなったわけでもない。
単純に、一度に追うものが少ない。
教室では、人が動くたびに別の匂いが重なった。ここなら、分かれるまで一拍かかっても、その間に次のものが割り込んでこない。
これなら追いつく。
手元の紙へ視線を戻した。
午前中に決めたのは、分からないものを無理に決めないことだった。
それだけじゃないらしい。
最初から、分ける必要のあるものを減らすこともできる。
「慧くん」
少しして、澄が近くまで来た。
「何」
「さっきより楽?」
俺は一度、部屋の中を見る。
桜小路先輩と柚木はまだ紙を挟んで話している。
星野はノートへ何かを書き込みながら、時々二人の会話へ顔を上げる。
入口側には雨具がまとまっていて、座っている場所の周囲はさっきより明らかに静かだった。
「教室よりはだいぶ楽」
「そっか」
「これなら平気」
澄はそれだけ聞いて頷いた。
「じゃあ、よかった」
そのまま自分の作業へ戻っていく。
俺も紙を揃える作業を続けた。
雨はまだ窓の外で降っている。
誰かが近くを通れば、今でも匂いが分かれるまで一拍かかる。
その間にも、桜小路先輩と柚木の話し声がして、星野が鉛筆を走らせ、棚の方では澄が何かを片付けている。
俺は手元の最後の一枚を揃えた。
紙の端がきれいに重なる。
「先輩、終わりました」
「ありがとう、神崎くん。こちらへ置いておいてちょうだい」
「はい」
俺は束を先輩の横へ置いた。
作法室では、まだ紙をめくる音と話し声が続いていた。
俺は自分の場所へ腰を下ろした。




