↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
青梅雨の窓辺と、香図の答え

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
74/93

第74話 湿風の教室と、重なる気配 2

 二時間目が終わる頃には、一つだけ分かっていた。


 今日は、俺の方も遅い。


 なら次に見るべきなのは、何が遅れているのかだ。


 チャイムが鳴る。


 教師が教科書を閉じると、教室の中もすぐに動き始めた。


「次、移動だっけ?」


「いや、ここ」


「よかった。だるー」


 椅子を引く音と話し声が重なる。席を立つやつ。廊下へ出るやつ。前の席へ身を乗り出すやつ。


 湿ったシャツに、雨を吸った髪。柔軟剤や制汗剤、汗の匂い。その向こうには、窓際にまとめられた傘から落ちる水の気配まで残っている。


 どれも分かる。


 薄くなっているわけでも、途中だけ抜けているわけでもない。


 前の席へ戻ってきた男子から、濡れた布と汗の匂いがした。それだけなら、いつもと変わらない。


 そこへ別のやつが横を通った。


 制汗剤と湿った鞄の匂いが重なった瞬間、さっきまで一人分だった輪郭が少しぼやける。何があるのかは分かるのに、どれとどれが同じ人間から来ているのかが、すぐにはまとまらない。


 二人が離れ、空気の重なりが薄くなる。


 そこでようやく、それぞれの位置が合った。


(……消えてるわけじゃないな)


 朝は、単に処理が遅いとしか思わなかった。


 今ならもう少し絞れる。


 匂いはちゃんと来ているし、一人だけならほとんど普段と変わらない。おかしくなるのは、いくつかが同じところへ重なった時だ。


 普段なら意識する前に終わっている切り分けが、今日は一拍後ろへずれている。


 俺は頬杖をついたまま、教室を眺めた。


 とはいえ、今ので全部決めるのも早い。


 たまたま普段あまり気にしていない相手だったから、整理に時間がかかっただけかもしれない。


「慧くん」


 顔を上げる。


 澄が立っていた。


「これ、前から回ってきたよ」


「ああ」


 差し出されたプリントを受け取る。


 見れば澄だ。


 声を聞いても澄だ。


 そんなことは確認するまでもない。


 俺の机の横まで来た澄の向こうを、ちょうど二人が通っていく。雨の残った制服と柔軟剤が近づき、窓からの湿った空気に、どこかの席から漂う制汗剤まで混ざった。


 その中へ、澄も入る。


 普段なら意識すらしない。


 昔から何度近くにいたか分からない相手だ。澄自身が何か特別な香りをつけているわけじゃなくても、衣服や髪、生活の中で残るかすかな匂いまで、考える前に澄のものとしてまとまる。


 今日は、それが一度周囲へ混ざった。


 澄が目の前にいる。


 なのに鼻から入ってきた情報だけは、すぐに一人分の形にならない。


 一拍遅れて。


 通路を歩いていた二人が離れたあと、薄い洗濯物の残り香や雨を含んだ髪の湿りが、ようやく澄の側へまとまった。


「……なるほど」


「何が?」


 澄が首を傾げる。


 澄でさえこうなるなら、相手に馴染みがあるかどうかの問題じゃなさそうだ。


 感じ取れていないわけでもない。後になれば、ちゃんと澄のものとして分かる。


 やっぱり、いくつかが重なった時だけ、分けるのに時間がかかっている。


「今日は駄目だな」


 口にすると、澄が少しだけ眉を寄せた。


「鼻?」


「ああ」


「つらい?」


「そこまでじゃない」


 頭も痛くない。吐き気もない。授業だって普通に受けられる。


 ただ、いつものつもりで鼻を信用するとまずい。


「匂いは分かる。でも、いくつか重なると分かれるのが遅い。たぶん今日は、普段みたいにすぐ決めない方がいい」


 澄は俺の言葉を聞いて、一度だけ頷いた。


「そっか」


 少し間を置いてから続ける。


「じゃあ、無理しないでね」


「ああ」


 澄はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。


 途中で別の女子に声をかけられ、そのまま何か話し始める。


 俺もプリントを机の中へ入れた。


 原因が分かったわけじゃない。


 今日だけなのか、雨のせいなのか、他にも条件があるのかも分からない。


 ただ、今の鼻を普段と同じ精度で扱うべきじゃない。


 そこまで分かれば十分だった。


 昼休みになっても、教室の湿気は大して変わらなかった。


 朝より濡れた物は乾いてきているが、代わりに人が動けば汗も増える。


 昼飯を食い終えた頃、誰かが俺の後ろを通った。


 ふっと甘い柔軟剤が近づいた。その中に制汗剤が混じり、少し遅れて湿った布の匂いも残る。


 普段なら、その時点で近くにいた誰かへ勝手にまとまる。


 今日も頭の中で、一人へ結びつけかけた。


 そこで止めた。


(……いや)


 まだ重なっている。


 後ろを通ったやつのものかもしれないし、その少し前まで近くにいた別のやつの残りかもしれない。


 今の俺には、そこで決める理由がない。


 数秒後。


 人が離れて、ようやく分かれた。


 結局、最初に考えかけた相手とは別だった。


 別に驚きはしない。


 決めていない以上、外してもいない。


「神崎さー」


 斜め前から柚木が振り向いた。


「何」


「今日、ちょい反応遅くない?」


「そうか?」


「朝からたまに一瞬止まってる」


 よく見ている。


 柚木は俺の顔を眺め、それから机に肘をついた。


「眠いとか?」


「鼻の調子が悪いだけ」


「鼻?」


「普段より整理に時間かかってる」


「へえ」


 柚木は一瞬だけ考える顔をしたが、それ以上掘ってはこなかった。


「じゃ、今日いつも以上に省エネモード?」


「元から省エネだろ」


「あ、自覚あったんだ」


「ある」


「そこ即答なんだ」


 柚木が笑う。


 そのまま後ろから呼ばれて、「なにー?」と別の会話へ戻っていった。


 午後の授業も普通に進んだ。


 黒板を見る。ノートを書く。教師に当てられれば答える。


 休み時間になればまた人が動き、匂いも重なる。


 ただ、もう全部を追う必要はなかった。


 曖昧なものは、そのまま流す。それで授業にも会話にも困らない。


 教室中の匂いを全部分類する必要なんて、最初からなかった。


 俺が勝手にできていたから、勝手に使っていただけだ。


 できない日まで、同じ精度を要求する理由はない。


 六時間目が終わる頃にも、雨はまだ窓へ細い筋を作っていた。


 鼻の状態は、朝から大きく変わっていない。


 意識を向ければ、重なった情報は相変わらずすぐには分かれなかった。それでも、朝のように一つ一つへ引っかかることはなくなっていた。


 帰りのホームルームが終わり、俺は教科書を鞄へ入れた。


 教室では部活へ行くやつと帰るやつが一斉に動き出している。


「神崎、あとでね」


 鞄を持った柚木が、友達の方へ向かいながら片手を上げた。


「ああ」


 澄も自分の机で荷物をまとめている。


 俺も立ち上がった。


 今日は月曜だ。


 いつも通り、香道部がある。


 教室より人数の少ない作法室なら、ここよりは多少ましだろう。


 別に、それで鼻が元へ戻るとは思っていない。


 戻らなくても、今日の扱い方はもう分かった。


 分からないものは、決めない。


 それだけ頭に置いて、俺は湿った教室を出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。