第74話 湿風の教室と、重なる気配 2
二時間目が終わる頃には、一つだけ分かっていた。
今日は、俺の方も遅い。
なら次に見るべきなのは、何が遅れているのかだ。
チャイムが鳴る。
教師が教科書を閉じると、教室の中もすぐに動き始めた。
「次、移動だっけ?」
「いや、ここ」
「よかった。だるー」
椅子を引く音と話し声が重なる。席を立つやつ。廊下へ出るやつ。前の席へ身を乗り出すやつ。
湿ったシャツに、雨を吸った髪。柔軟剤や制汗剤、汗の匂い。その向こうには、窓際にまとめられた傘から落ちる水の気配まで残っている。
どれも分かる。
薄くなっているわけでも、途中だけ抜けているわけでもない。
前の席へ戻ってきた男子から、濡れた布と汗の匂いがした。それだけなら、いつもと変わらない。
そこへ別のやつが横を通った。
制汗剤と湿った鞄の匂いが重なった瞬間、さっきまで一人分だった輪郭が少しぼやける。何があるのかは分かるのに、どれとどれが同じ人間から来ているのかが、すぐにはまとまらない。
二人が離れ、空気の重なりが薄くなる。
そこでようやく、それぞれの位置が合った。
(……消えてるわけじゃないな)
朝は、単に処理が遅いとしか思わなかった。
今ならもう少し絞れる。
匂いはちゃんと来ているし、一人だけならほとんど普段と変わらない。おかしくなるのは、いくつかが同じところへ重なった時だ。
普段なら意識する前に終わっている切り分けが、今日は一拍後ろへずれている。
俺は頬杖をついたまま、教室を眺めた。
とはいえ、今ので全部決めるのも早い。
たまたま普段あまり気にしていない相手だったから、整理に時間がかかっただけかもしれない。
「慧くん」
顔を上げる。
澄が立っていた。
「これ、前から回ってきたよ」
「ああ」
差し出されたプリントを受け取る。
見れば澄だ。
声を聞いても澄だ。
そんなことは確認するまでもない。
俺の机の横まで来た澄の向こうを、ちょうど二人が通っていく。雨の残った制服と柔軟剤が近づき、窓からの湿った空気に、どこかの席から漂う制汗剤まで混ざった。
その中へ、澄も入る。
普段なら意識すらしない。
昔から何度近くにいたか分からない相手だ。澄自身が何か特別な香りをつけているわけじゃなくても、衣服や髪、生活の中で残るかすかな匂いまで、考える前に澄のものとしてまとまる。
今日は、それが一度周囲へ混ざった。
澄が目の前にいる。
なのに鼻から入ってきた情報だけは、すぐに一人分の形にならない。
一拍遅れて。
通路を歩いていた二人が離れたあと、薄い洗濯物の残り香や雨を含んだ髪の湿りが、ようやく澄の側へまとまった。
「……なるほど」
「何が?」
澄が首を傾げる。
澄でさえこうなるなら、相手に馴染みがあるかどうかの問題じゃなさそうだ。
感じ取れていないわけでもない。後になれば、ちゃんと澄のものとして分かる。
やっぱり、いくつかが重なった時だけ、分けるのに時間がかかっている。
「今日は駄目だな」
口にすると、澄が少しだけ眉を寄せた。
「鼻?」
「ああ」
「つらい?」
「そこまでじゃない」
頭も痛くない。吐き気もない。授業だって普通に受けられる。
ただ、いつものつもりで鼻を信用するとまずい。
「匂いは分かる。でも、いくつか重なると分かれるのが遅い。たぶん今日は、普段みたいにすぐ決めない方がいい」
澄は俺の言葉を聞いて、一度だけ頷いた。
「そっか」
少し間を置いてから続ける。
「じゃあ、無理しないでね」
「ああ」
澄はそれ以上何も言わず、自分の席へ戻っていった。
途中で別の女子に声をかけられ、そのまま何か話し始める。
俺もプリントを机の中へ入れた。
原因が分かったわけじゃない。
今日だけなのか、雨のせいなのか、他にも条件があるのかも分からない。
ただ、今の鼻を普段と同じ精度で扱うべきじゃない。
そこまで分かれば十分だった。
昼休みになっても、教室の湿気は大して変わらなかった。
朝より濡れた物は乾いてきているが、代わりに人が動けば汗も増える。
昼飯を食い終えた頃、誰かが俺の後ろを通った。
ふっと甘い柔軟剤が近づいた。その中に制汗剤が混じり、少し遅れて湿った布の匂いも残る。
普段なら、その時点で近くにいた誰かへ勝手にまとまる。
今日も頭の中で、一人へ結びつけかけた。
そこで止めた。
(……いや)
まだ重なっている。
後ろを通ったやつのものかもしれないし、その少し前まで近くにいた別のやつの残りかもしれない。
今の俺には、そこで決める理由がない。
数秒後。
人が離れて、ようやく分かれた。
結局、最初に考えかけた相手とは別だった。
別に驚きはしない。
決めていない以上、外してもいない。
「神崎さー」
斜め前から柚木が振り向いた。
「何」
「今日、ちょい反応遅くない?」
「そうか?」
「朝からたまに一瞬止まってる」
よく見ている。
柚木は俺の顔を眺め、それから机に肘をついた。
「眠いとか?」
「鼻の調子が悪いだけ」
「鼻?」
「普段より整理に時間かかってる」
「へえ」
柚木は一瞬だけ考える顔をしたが、それ以上掘ってはこなかった。
「じゃ、今日いつも以上に省エネモード?」
「元から省エネだろ」
「あ、自覚あったんだ」
「ある」
「そこ即答なんだ」
柚木が笑う。
そのまま後ろから呼ばれて、「なにー?」と別の会話へ戻っていった。
午後の授業も普通に進んだ。
黒板を見る。ノートを書く。教師に当てられれば答える。
休み時間になればまた人が動き、匂いも重なる。
ただ、もう全部を追う必要はなかった。
曖昧なものは、そのまま流す。それで授業にも会話にも困らない。
教室中の匂いを全部分類する必要なんて、最初からなかった。
俺が勝手にできていたから、勝手に使っていただけだ。
できない日まで、同じ精度を要求する理由はない。
六時間目が終わる頃にも、雨はまだ窓へ細い筋を作っていた。
鼻の状態は、朝から大きく変わっていない。
意識を向ければ、重なった情報は相変わらずすぐには分かれなかった。それでも、朝のように一つ一つへ引っかかることはなくなっていた。
帰りのホームルームが終わり、俺は教科書を鞄へ入れた。
教室では部活へ行くやつと帰るやつが一斉に動き出している。
「神崎、あとでね」
鞄を持った柚木が、友達の方へ向かいながら片手を上げた。
「ああ」
澄も自分の机で荷物をまとめている。
俺も立ち上がった。
今日は月曜だ。
いつも通り、香道部がある。
教室より人数の少ない作法室なら、ここよりは多少ましだろう。
別に、それで鼻が元へ戻るとは思っていない。
戻らなくても、今日の扱い方はもう分かった。
分からないものは、決めない。
それだけ頭に置いて、俺は湿った教室を出た。




