第73話 湿風の教室と、重なる気配 1
朝から降っている雨は、傘を叩くほど強くはなかった。
その代わり、湿気だけはしつこい。
家を出た時には、それほど気にならなかった。細い雨の匂いと、濡れ始めた道路。それくらいなら別に珍しくもない。
面倒になったのは、学校が近づいてからだ。
同じ制服の生徒が増える。
傘から落ちる水。濡れた靴。湿った鞄。雨を吸った髪と布地。そこへ柔軟剤や制汗剤、歩いてきた分の汗が重なる。
晴れていればもう少し散るものまで、今日は空気の中に残っていた。
まあ、雨の日なんてこんなものだ。
六月に入ってから、暑さも湿気も増えている。今さら驚くほどでもない。
校門を抜き、昇降口へ向かう。
傘を閉じた生徒が何人も軒下へ集まり、一気に人の密度が上がった。
「おはよー」
「傘、そこ置いといていい?」
「靴下まで濡れたんだけど」
声が飛び交う。
すぐ横を男子が二人通り過ぎた。
湿ったシャツ。整髪料。鞄についた雨水。朝に使ったらしい制汗剤。
全部、分かる。
ただ、その二人が数歩先へ行ってからだった。
さっきまでひとまとまりに重なっていたものが、少し遅れてそれぞれに分かれた。
俺は上履きへ履き替えながら、一度だけ顔を上げる。二人はもう廊下の先へ消えかけていた。
(……人が多かったからか)
濡れた生徒が一か所へ集まれば、匂いも重なる。珍しい話じゃない。
靴箱を閉め、そのまま教室へ向かった。
二年三組に入ると、廊下よりさらに空気が動いていなかった。
窓際には水滴のついた傘が何本かまとめて置かれている。椅子の背には濡れた上着。夏服へ替わったとはいえ、雨を吸ったシャツや髪からは湿った布と人の匂いが残っていた。
窓は少し開いていた。そこから入ってくる外気まで湿っている。
閉めれば教室に残る。開ければ湿った空気が入る。
どっちでも大差なさそうだ。
「神崎、おはよ」
「ああ」
声の方を見ると、柚木が自分の席へ鞄を置くところだった。
そのまま近くの女子に呼ばれて、すぐそっちへ向く。
「え、昨日それ買ったの?」
「そう。見て、めっちゃ可愛くない?」
「貸して貸して」
いつもの朝だ。
反対側では澄も別の女子と話していた。
俺と一緒に登校したからといって、教室までずっと横にいるわけじゃない。
俺は窓際の自席へ座り、鞄から教科書を出した。
前の席のやつが立ち上がる。ほぼ同時に、通路を二人が通った。
濡れた髪。柔軟剤。汗。制汗剤。誰かの鞄についたビニールの匂い。
一度に来る。
普段なら、気にするまでもない。誰が近くを通ったかなんて、わざわざ考えなくても勝手に分かれる。
今日は違った。
近くを通った三人が離れてから、ようやく一つずつ形になった。
間違ってはいない。
ただ、遅い。
(近すぎたか)
通路が狭い上に、朝は人が動く。それだけなら説明はつく。
俺は教科書を開いた。
朝のホームルームが始まれば、教室の動きはいったん減った。
出席確認。連絡事項。担任の声。
特に問題はない。黒板も普通に見えるし、話も聞ける。
一時間目の授業も、そのまま終わった。
問題がまた出たのは休み時間だった。
教室が一斉に動き始める。
誰かが俺の横を通った。
少し遅れて、その後ろを別のやつが通る。
雨に濡れた靴下と甘い柔軟剤、汗、別方向から制汗剤が一度に重なる。
一度、全部が近いところへ重なった。
俺は教科書へ向けていた視線を上げる。
誰がどこにいるかは見れば分かる。
それなのに、鼻で拾った匂いが誰のものなのか、すぐには結びつかなかった。
人が離れる。空気が少し動く。
そこでようやく、さっきの匂いがそれぞれ誰から来たものだったのか分かる。
「神崎?」
「何」
前から声がした。
柚木が机の間に立っている。
「いや、今ちょっとぼーっとしてなかった?」
「してない」
「ほんと?」
「授業終わったから何もしてなかっただけだろ」
「あー、それはそう」
納得が早い。
柚木はそれ以上気にせず、近くの席から呼ばれてそっちへ行った。俺も追わない。
体調が悪いわけじゃない。頭痛もないし、気分も悪くない。
ただ――まただった。
そのあとも、人が動くたびに似た引っかかりは残った。
後になれば分かる。分からないわけじゃない。ただ、分かるまでがいつもより遅い。
そこが余計に気になった。
二時間目が始まった。
教師が黒板へ文字を書く。チョークの音に混じって、ノートをめくる音がする。俺も板書を写した。
授業内容は普通に頭へ入る。
雨はまだ降っている。窓の外に見える校舎の壁が、いつもより濃い色になっていた。窓際の湿った空気も、朝とほとんど変わらない。
たぶん今日の教室は、いつもより面倒だ。そこまでは間違っていない。
でも、それだけなら俺はもう少し楽に流せていたはずだ。
雨の日は今日が初めてじゃない。人が密集した場所なら、ここよりひどいところだっていくらでもある。
俺が普段やっているのは、こんな作業だっただろうか。
普段なら意識する前に終わっている。
今日は、そこへいちいち意識を向けている。
原因まではまだ分からない。
鼻がおかしいのか。単純に今日の条件が悪すぎるのか。何か特定の匂いだけ扱いづらいのか。
今の時点で決める材料はない。
それ以上考えるのはやめた。
ただ、一つだけなら分かる。
(外が面倒なだけじゃないな)
少なくとも今日は、俺の方もいつもと少し違う。
その認識だけ残して、シャーペンを持ち直した。
黒板では、教師がさっきから説明を続けている。ページをめくる音。ペンを走らせる音。まだ乾かない制服と、雨を含んだ教室の空気。
俺も止まっていたノートへ視線を戻した。
いつも通り、授業は続いている。
違うのが何なのかは、まだ分からないまま。




