第72話 初夏の夕暮れと、ひらいた居場所 3
大きな問題が片づいたからといって、紙が勝手に消えてくれるわけではないらしい。放課後の作法室に入ると、座卓の上には今日も書類があった。
昨日までみたいに、何かが決まるかもしれないとか、誰かと話をつけなきゃならないとか、そういう種類のものじゃない。
活動内容の案内。今後の予定。提出用の確認事項。
要するに、続けると決まったからこそ必要になる面倒事だ。
「神崎くん、こちらをお願いできますか」
座る前に、桜小路先輩から紙の束を渡された。
「俺もやることになってるんですか」
「なっております」
「いつから」
「少なくとも、昨日には」
即答だった。昨日のどの時点で決まったのかは聞かなかった。聞いたところで、たぶん俺が何枚かの書類を勝手に確認したあたりまで遡る。
渡された紙を見る。今後、学校側へ定期的に提出する活動報告の記入例らしい。内容そのものは難しくないが、項目の一部が曖昧だった。
「これ、活動実績と活動内容で同じこと書くことになりません?」
「わたくしもそこが気になっておりました」
「じゃあ先に言ってください」
「ですから、お渡ししました」
そう言って、桜小路先輩は別の書類へ視線を戻した。疑問がある。
俺に渡す。終わり。
ずいぶん雑になった。俺は紙を返さず、そのまま空いている場所へ座った。
「慧くん、お茶」
澄が湯呑みを置く。
「ああ」
手を伸ばそうとしたところへ、ちょうど取りやすい位置で止まった。いつものことだ。
湯気に混じる茶の香りは薄い。部屋の空気を邪魔しない程度で、それでも口に含めばちゃんと味がある。
開けられた窓から入ってくる初夏の空気には、校庭の土と草、それから遠くの部活で動いている連中の汗が混ざっていた。全部がここまで強く入り込んでくるわけじゃない。
風の通り方も、窓の開け幅も、澄が適当にやっているようで俺にはちょうどいい。
「こっち、窓閉めた方がいい?」
「いや、そのままでいい」
「分かった」
澄はそれだけ言って、水屋へ戻った。机の向こうでは、柚木が別の紙を読んでいる。
「うーん」
さっきから三回目だ。
「何」
「これさあ、間違ってはいないんだけど」
柚木が一枚持ち上げる。
「初めて読む人、途中で分かんなくならない?」
桜小路先輩が顔を上げた。
「どの部分でしょう」
「ここ。『香道文化への理解を深める活動を通じて』ってところから」
「そこから?」
「そのあともずっと」
「ほぼ全部ではありませんか」
「だから困ってるの」
柚木は笑いながら、紙の上を指でなぞった。
「あたしたちはもう何やってるか知ってるから読めるけど、何も知らない一年生が見たらさ。結局、見学に行ったら何するのって思うでしょ?」
「……なるほど」
「お香聞いたり、お菓子食べたり、たまに相談したり。最初はそのくらいでよくない?」
「最後の一つを正式な活動内容に含めるかは検討が必要ですが」
「そこ重要?」
「重要です」
真顔で返され、柚木が肩を揺らす。
「じゃ、そこは先輩に任せる」
相談事を正式業務にされたら、俺としても困る。ただ、柚木の指摘自体は正しい。内容を正確にしようとした結果、説明する側にしか分からない文章になっている。
「少なくとも最初の二行はいらないと思います」
「神崎くんまで」
「読む側に必要ないので」
「ほら」
なぜか柚木が勝ち誇った。俺が味方をしたことになったらしい。
「では、もう少し平易に改めます」
「私も、そこは変えた方がいいと思います」
星野が紙を覗き込みながら言った。
「どのあたりでしょうか」
「えっと……入ったばかりの時にこれを読んでたら、たぶん『香りを聞く』のところで止まってたと思います」
柚木が星野を見る。
「あー、そっちか」
「はい。今なら分かりますけど、最初は『聞くって何を?』って思ったので」
「確かに、それ説明なしだと分かんないね」
「あと、こっちもです」
星野が少し下を指す。
「『組香』って書いてあっても、初めての人には何をするのか分からないと思います」
桜小路先輩が紙へ視線を落とす。
「前提として扱ってしまっていましたね」
「入る前の私だったら、たぶん分からないです」
「では、専門的な言葉は説明を添えましょう」
「その方がいいと思います」
柚木が文章を書き直し、星野がその横から時々紙を覗き込む。
「これなら?」
「さっきより分かります」
「じゃあこっちは?」
「そこは、まだちょっと難しいかもです」
「先輩、だって」
「わたくしへそのまま返さないでください」
桜小路先輩の声に、呆れが混ざった。それでも紙を取り戻そうとはしない。
俺のところにも、一枚増えた。
「神崎くん、こちらも」
「増えてません?」
「先ほどの確認と関連していますので」
「便利に使われてる気がする」
「気のせいではないと思うよ」
澄が戻ってきながら言った。
「そこは否定してくれ」
「でも慧くん、もう読んでるよ」
言われて手元を見る。二枚目の半分まで目を通していた。返す方が面倒だ。
「……まあ、いいけど」
澄が笑って、俺の横に腰を下ろした。作法室には紙をめくる音が続いた。
時々、柚木と星野の声。桜小路先輩の返事。湯を注ぐ音。外からは運動部の掛け声が遠く聞こえる。静かではある。けれど、前みたいに何も入ってこない静けさじゃない。
「これ、同じ内容が二か所あります」
俺が言うと、桜小路先輩が手を止めた。
「どちらを残すべきでしょう」
「こっちです。後ろの方は削っても意味は変わらない」
「では、そのように」
「あ、待って。それなら前の文章も一個変えたい」
柚木が身を乗り出す。
「どうせ後ろ消すなら、最初に誰向けか分かるようにした方がよくない?」
「それなら、そのあとに説明があるって分かる方が読みやすいと思います」
星野が言う。
「最初に専門用語が並んでると、そこで難しそうって思っちゃうので」
「じゃあ、順番も変える?」
「その方が読みやすいです」
俺が見つけた重複が柚木へ渡り、柚木の修正を星野が初めて読む側から確かめ、最後に桜小路先輩が全体を確認する。
「こちらでよさそうですね」
桜小路先輩が修正版へ目を通し、机の端へ置いた。その横には、すでに終わった書類が何枚か重なっている。
反対側には、まだ手をつけていない束。最初に見た時より減ってはいるが、なくなる気配はない。
壁の時計を見ると、思っていたより針が進んでいた。
「まだこれだけあるけど」
柚木が残りの束を見る。
「今日中に全部やる?」
桜小路先輩が答えなかった。ほんの少しだけ、視線が残った紙の上を滑る。
俺もそれを見る。急ぐ必要はない。提出期限はまだ先だ。今日やらなければ困るものもない。
「先輩」
柚木が声をかける。その時には、桜小路先輩はもう紙から目を離していた。
「今日はここまでにしましょう」
星野が顔を上げる。
「残りは明日ですか?」
「はい。明日で問題ありません」
「分かりました」
柚木も何か言いそうな顔をしたが、結局何も言わずに自分の資料をまとめ始める。俺も受け取った紙を揃えた。
「これ、どうします」
「そのまま置いておいてください。明日、続きをお願いします」
「俺がやるのは確定なんですね」
「お願いいたします」
「疑問形ですらなくなった」
「嫌でしたか?」
そこで初めて、桜小路先輩が俺を見る。
本当に頼んでいいのかとか、迷惑じゃないのかとか、そういう確認はない。だから俺も考える時間はいらなかった。
「別に。明日でいいなら」
「では、お願いいたします」
それで話は終わった。澄が湯呑みを集める。
星野は途中まで確認した紙に付箋を貼り、柚木は書き直したところをもう一度読み返している。桜小路先輩は未処理の束を鞄へ入れない。
座卓の端へ置き、明日分だと分かるように分けただけだった。全部終わっていない。
なのに、誰も困っていない。
「帰ろっか」
柚木の一言で、みんなが立ち上がる。澄が最後に水屋を確認し、窓を閉めた。
さっきまで入っていた外の風が止まる。俺は自分の鞄を肩にかけ、残された紙の束を一度だけ見た。
明日になれば、また続きをやる。誰が最初に手に取るのかまでは知らない。
たぶん、それで困らない。全員が廊下へ出たあと、桜小路先輩が鍵を手にする。
戸はいつもどおり閉める。木と木が触れる乾いた音がして、作法室は廊下から切り離された。
それでも今日は、何かを中へ閉じ込めた感じがしなかった。机の上には、やりかけの仕事が残っている。
明日になれば、また戸を開けて、その続きを始めればいい。今度は、誰か一人でなく。
第2章完結です。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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