第71話 初夏の夕暮れと、ひらいた居場所 2
結果が出る日でも、六時間目の授業が短くなるわけじゃない。窓の外では、初夏の光が校舎の壁を白く照らしている。教室には黒板のチョークと教科書、それから午後になって少し濃くなった人の匂いが混じっていた。
いつも通りだ。
前の席では如月が教師の話を聞いている。昨日、生徒会室であれだけ香道部の改善案について質問していた人間も、教室へ戻れば同じクラスの生徒でしかない。
もちろん、何も言ってこない。今日、正式な結果が返ることは聞いている。
だからといって、如月の顔や身体反応から先に答えを拾おうとは思わなかった。聞ける時間になれば、聞けばいい。
昨日までに、こっちから出せるものは全部渡した。今さら授業中に考えても、答えが増えるわけじゃない。
チャイムが鳴る。教師が教室を出ていくと、それまで押さえられていた声が一斉に戻った。
「慧くん、行こっか」
鞄を持った澄が、俺の机の横に立つ。
「ああ」
俺も立ち上がった。いつもの放課後だった。
作法室へ着いても、誰も結果だけを待って座ってはいなかった。
「これ、今日中だったよね?」
柚木が広げたノートを見ながら澄に聞いている。
「明日じゃなかった?」
「え、マジ?」
「提出は明日。小テストは今日だったよ」
「あー、そっちか。危な」
何が危なかったのかは分からないが、柚木は安心したらしい。
向こうでは星野が棚の前にしゃがみ込んでいた。
「桜小路先輩、この箱ってこっちで合ってます?」
「ええ。そちらへお願いします」
「はーい」
桜小路先輩も、いつものように手元の道具を確認している。部屋の中には茶の匂いが薄く残っていた。
窓は少し開いている。外の湿った空気は入ってくるが、人の多い教室よりずっと楽だった。
「慧くん、お茶飲む?」
「もらう」
「うん」
澄が自分の湯呑みも一緒に用意する。結果を聞く時間までは、まだ少しある。その間に俺は鞄から課題を出した。
「神崎、普通に宿題するんだ」
柚木がこっちを見る。
「結果が気になるなら宿題しちゃ駄目なのか」
「いや、そうじゃないけど」
「今見ても変わらないし」
「それはそうなんだけどさあ」
柚木は自分のノートへ目を戻した。
「なんか神崎って、こういう時まで通常運転だよね」
「昨日やることはやっただろ」
「うん。まあ、それもそうか」
会話が切れる。しばらくすると、また紙をめくる音や筆記具の音が戻った。
星野も棚の整理を終えて、自分の席につく。誰も時計を見ていないわけじゃない。
柚木は一度、壁の時計へ視線を向けた。星野もさっきから二回は見ている。
桜小路先輩も、いつもより時間を正確に意識している気はする。でも、それだけだ。
ここは結果を待つためだけの部屋じゃない。俺たちは、結果が出る前からここで過ごしている。
「そろそろですわね」
桜小路先輩が手を止めた。壁の時計を見る。
「神崎くん、参りましょうか」
「はい」
課題を閉じた。澄が俺を見る。
「行ってきて」
「ああ」
「先輩も」
「ありがとうございます、真白さん」
桜小路先輩と一緒に引き戸を閉める。誰も廊下へはついてこなかった。
生徒会室には、昨日と同じ顔が揃っていた。
一条会長。高科。天宮。如月。
昨日は机の上を埋めていた資料が、今日は一つにまとめられている。
「お掛けください」
一条会長に言われ、桜小路先輩と並んで席についた。紙とインクの乾いた匂い。
開いた窓から入る外気。人が六人いる分、作法室より情報は多い。
それでも、昨日みたいに長時間の質疑が始まるわけじゃない。一条会長が手元の資料へ一度視線を落とした。
「昨日提出された改善案について、必要な確認と手続きが終わりました。今日は、現時点での判断をお伝えします」
「はい」
桜小路先輩が答える。
一条会長はすぐに結論へは行かなかった。
「その前に、確認しておかなければならないことがあります」
真っ直ぐ、こちらを見る。
「香道部について、これまで指摘した問題がなくなったわけではありません」
桜小路先輩は黙って聞いている。
「現在も部員数は多くありません。作法室は専用性の高い空間ですし、学校の施設を継続して利用する以上、今後もその利用を説明できる状態を保つ必要があります」
「承知しております」
「一般の生徒が香道に触れる機会を作る案についても、現時点では計画です。今後も継続可能な形で活動できるかどうかも、まだ実績として確認されたわけではありません」
「はい」
先輩は反論しなかった。当然だ。それが全部解決しているなら、そもそも改善案なんて必要なかった。
「そのうえで」
一条会長が資料のページをめくる。
「今回提出された改善案については、実際に進め、その結果を確認するだけの合理性があると判断しました」
隣で、桜小路先輩の指先がわずかに動いた。それだけだった。
一条会長は続ける。
「現在行っている活動と作法室の利用について、以前より第三者が確認できる形になっています。作法室を必要とする理由についても、香道部の活動と接続して説明されています」
「一般向けの活動についても」
天宮が言葉を継いだ。
「普段の活動を全部そっちへ変えるわけではない、というのは確認できました。日時や範囲を分けて、必要なところは先生にも確認する。その形なら、少なくとも通常の活動を壊してまで外向けの実績を作る案ではないと思います」
桜小路先輩が頷く。
「ありがとうございます」
「僕からも一つ」
高科が資料へ手を置いた。
「昨日までに整理された記録は、今まで何をしていたかを見るだけじゃありません」
声はいつも通り落ち着いている。
「同じ形で今後も記録を残すなら、改善案を出した後に何が変わったかも確認できます。今の段階で回数や人数を決める必要はないと思います。実際の活動がどう続いたかは、後から同じ材料で見られますから」
前までは、足りないものを示すために使われていた資料だ。今度は、変わったかどうかを見るためにも使える。
資料そのものが別物になったわけじゃない。こっちが出せる情報が変わっただけだ。
「俺も、昨日聞いたところについてはいいと思います」
如月が言った。
「一般向けに何かやります、で終わってないですし。普段の活動をどうするかも一応答えは出てたので」
「一応って何よ」
天宮が横から言う。
「いや、ちゃんとって言うと俺が急に偉そうだろ」
「昨日あれだけ聞いてたのに?」
「聞くのは仕事だろ」
高科が二人を見る。
「話を戻していい?」
「はい」
「どうぞ」
一瞬だけ空気が緩んで、すぐに戻った。一条会長が改めて俺たちを見る。
「以上を踏まえた結果です」
桜小路先輩の姿勢が、ほんの少しだけ整った。
「文化祭頃を一つの区切りとして、現在の香道部の活動と作法室利用を継続することになりました」
言葉が落ちる。
「その期間に、香道部自身が提出した改善案を実際の活動へ移してください。活動と利用状況を確認できる形で積み上げたうえで、その時点の状況を改めて確認します」
桜小路先輩は、すぐには答えなかった。
一度だけ息を吐く。
さっきわずかに動いた指先から、力が抜けた。
「――ありがとうございます」
声はいつも通りだった。それでも、昨日までより少しだけ軽く聞こえた。
「ただし」
一条会長が続ける。
「これは、作法室の長期的な継続利用が確定したという意味ではありません」
「はい。理解しております」
「現状に残っている課題についても、これまでの指摘を取り消したわけではありません」
「承知しております」
先輩はまっすぐ答えた。
「そのうえで、いただいた時間を使わせていただきます」
一条会長が頷く。
「お願いします」
それで、正式な話は終わった。拍手もない。
勝った負けたという言葉も出ない。机の上には昨日と同じ資料がある。
人も同じだ。それでも、昨日までと一つだけ違う。
明日からも、作法室を使える。少なくとも、俺たちが出した案を実際にやってみせる時間はできた。
汗の匂いも、呼吸も、視線も、当然そこにはある。でも、それを拾って一条会長が本当はどう思っているか考える必要はなかった。
今必要なのはそこじゃない。本人の口から伝えられた言葉、机の上に残る資料、正式に返された判断。今回の答えは、それで十分だった。
生徒会室を出て、少し歩いたところで桜小路先輩が足を止めた。
「神崎くん」
「はい」
「続けられますね」
「文化祭頃までは」
「ふふ。ええ」
先輩が笑う。
「今は、それで十分です」
その表情から、さっきまであった硬さが抜けている。
「まだやることはありますけど」
「そうですわね」
「一般向けのことも、記録も」
「ええ」
「先輩だけでやらないでくださいね」
一瞬、桜小路先輩が黙った。それから、困ったように笑った。
「先に言われてしまいました」
「前科がありますから」
「否定できませんわね」
先輩は歩き出す。俺も隣を歩く。
「神崎くん」
「はい」
「ここまで、一緒に持ってくださってありがとうございました」
資料へ目を向けたまま、先輩が言った。
「改善案は、わたくし一人で作ったものではありません。真白さんも、柚木さんも、星野さんも、先生も。それぞれが、自分にできることを出してくださいました」
「はい」
「ですから、これは皆の結果です」
そこで一度、こっちを見る。
「そのうえで――わたくしが一人で持とうとしていたものまで、途中から神崎くんが持ってくださったことには、きちんとお礼を言いたかったのです」
「俺も作法室なくなると困るんで」
「ええ。存じております」
即答された。
「だから、それでいいんです」
それ以上、先輩は何も足さなかった。
作法室へ戻ると、三人ともさっきと同じ場所にいた。柚木は課題をやっていて、星野はその横で何かを書いている。
澄は水屋から戻ってきたところだった。引き戸の音で、三人がこちらを見る。
「どうでした?」
星野が最初に聞いた。桜小路先輩が部屋へ入る。
「文化祭頃まで、現在の活動と作法室の利用を続けられることになりました」
一拍、部屋が静かになった。
「……ほんと?」
柚木が鉛筆を置く。
「ええ。ただし、長期的な継続が決まったわけではありません。わたくしたちが提出した改善案を実際に進め、その状態を改めて確認していただきます」
「じゃあ」
柚木の顔が明るくなる。
「しばらくは、ここ使えるんだ」
「そういうことになります」
「よかったぁ……」
椅子の背にもたれた。星野も息を吐く。
「じゃあ、一般の人向けのやつも、本当にやっていくんですね」
「ええ。これから考えていきましょう」
「これから?」
「今日はいたしません」
桜小路先輩が笑う。
「えっ」
「星野さんは、今すぐ始めたかったかしら」
「いえ。全然」
返事が速かった。
柚木が吹き出す。
「くるみ、正直すぎ」
「だって、今から会議始まったら普通にお腹空きますもん」
「それはあたしも」
「私も、まだ宿題残ってるよ」
澄が言った。
「澄ちゃんまで?」
「うん。今日は普通に多いから」
そう言いながら、澄が自分のノートを指す。
「慧くんも、途中だったよね」
「ああ」
「じゃあ、お茶だけ入れ直すね」
「頼む」
結果を聞いた直後なのに、部屋はすぐに元へ戻った。柚木は課題を再開する。
星野は途中だったものへ視線を落とす。桜小路先輩も、持ち帰った資料を机の端へ置いた。
開かない。代わりに、自分の湯呑みを取る。
澄が茶を淹れる音がする。湯気と一緒に、馴染んだ香りが広がった。
やることは、まだ残っている。でも、それを今日全部始める必要はない。
少しして、全員で使ったものを片付けた。桜小路先輩も資料を抱えて残ろうとはしなかった。
「では、今日は帰りましょうか」
「はーい」
「お疲れさまでした」
「また明日」
引き戸を閉める。明日もここへ来られる。
茶を飲んで、宿題をして、必要なら仕事をして、その先を考えられる。今日返ってきたのは、たぶんそういう時間だった。
「慧くん、帰ろっか」
隣で澄が言う。
「ああ」
俺たちは、いつものように旧校舎を出た。




