第70話 初夏の夕暮れと、ひらいた居場所 1
作法室を残したい。
それ自体は、もう俺たちの中では答えが出ている。
今日聞かれるのは、その先だ。
「書類は、これで全部ですわね」
桜小路先輩が、低い机の上に揃えた資料へ目を通す。
昨日までにまとめた改善案、活動記録、今後の利用資料、顧問側で確認が必要な部分。必要なものが揃っているかだけを確かめる。
ここで新しい答えを作る必要はない。
「はい。提出用と手元用、両方あります」
澄が答えた。
「ありがとうございます」
桜小路先輩は資料を閉じると、それ以上ページを戻さなかった。作法室では、俺たちが出ていく準備をしている横でも、いつもの放課後が続いている。
柚木は自分の作業へ戻っているし、星野も棚の前で手を動かしていた。全員で生徒会へ押しかけるわけじゃない。
今日、向こうへ行くのは部長の桜小路先輩と俺だけだ。
「活動記録について詳しく聞かれた場合は、神崎くんから説明していただいてもよろしいかしら」
「分かりました」
桜小路先輩が部長として説明し、俺は自分が整理した部分を必要な時に補足する。これまで全員で作ったものを、今日は二人で持っていく。
「じゃあ、いってらっしゃい」
澄が言った。
「ああ」
「神崎先輩、頑張ってください」
星野の声も飛んでくる。
「質問するのは俺じゃないけどな」
「それはそうですけど」
星野が笑った。桜小路先輩も口元を緩めてから、資料を抱える。
「では、行ってまいります」
引き戸を閉めた。渡り廊下へ出ると、昼間まで校舎に残っていた熱がまだ床から上がっていた。
開いた窓から風は入ってくる。初夏の湿った空気。校庭の土。運動部の生徒たちが残した汗。
人通りが少ない分、昼休みよりはましだった。隣を歩く桜小路先輩の足取りはいつもと変わらず、資料を持つ手にも見て分かるほどの力は入っていない。
そこから緊張の有無まで決める必要はなかった。
「神崎くん」
「はい」
「前回と同じ質問が来るかもしれません」
「でしょうね」
「けれど、今回は答えられます」
静かな声だった。
「はい」
俺もそう思う。質問が簡単になったわけじゃない。今度は、答える材料がある。
生徒会室へ入ると、一条会長、高科、天宮、如月がすでに席についていた。前に来た時と、顔ぶれは変わらない。
長机の上には、先に提出してあった資料が置かれている。コピー用紙とホワイトボードマーカーの乾いた匂い。
作法室みたいに呼吸しやすい場所ではないが、話ができないほどでもない。
「では、始めます」
一条会長が資料へ手を置いた。
「今日は、前回の確認を受けて香道部から提出された改善案について、正式に内容を確認します。ただし、この場で作法室の継続利用について最終判断を出すわけではありません」
「承知しております」
桜小路先輩が答える。
「では、桜小路さん。説明をお願いします」
「はい」
先輩が資料を開いた。
「前回、わたくしたちは、作法室が実際にどのように使われ、そこで生まれているものにどのような価値があるのかということと、それを学校の施設利用としてどう説明するかを、十分に分けてお示しできませんでした」
一条会長は黙って聞いている。
「今回の案では、香道部として現在行っている活動を基礎に置いたうえで、その活動を損なわない範囲で、部外の生徒にも香道へ触れられる機会を作ることにしております。また、今後は作法室の利用と活動を、後から確認できる形で残します」
「部外の生徒を受け入れること自体が、作法室を残す理由ということですか」
最初に声を挟んだのは高科だった。
「いいえ」
桜小路先輩はすぐに否定した。
「それだけではありません。一般の生徒へ開くことは、これまで活動が外から見えにくかった点への対応の一つです。作法室を利用する理由そのものは、香道部として継続して活動していることと、香材や道具を扱う環境として、この部屋を使用する必要があることにあります」
「その『継続して活動している』という部分ですが」
高科が手元の紙を一枚めくる。
「記録の範囲を確認してもいいですか」
「もちろんです」
「以前の話では、この部屋で休んだり、宿題をしたり、生徒同士で過ごしたりしていたことも出ていました。それも活動実績として記録しているんでしょうか」
桜小路先輩が俺を見る。決めていた通りだ。
「そこは俺から説明します」
一条会長が頷いた。
「お願いします。神崎くん」
「活動実績には入れてません」
高科が顔を上げた。
「茶を飲んでた時間も、宿題してた時間も、俺がここで休んでた時間もです。実際にこの部屋で起きてたことではありますけど、香道部の活動実績としては数えてません」
「意図的に分けた?」
「はい」
「どうして?」
「別のものだからです」
考えてから続ける。
「俺にとって作法室が助かる場所だったことと、香道部が部活動として何をしてきたかは同じじゃない。前者まで活動実績に入れたら、記録として何を見てるのか分からなくなると思います」
高科は資料へ視線を戻した。
「なるほど」
そのまま、別の欄で指が止まる。
「もう一つ。この費用や道具についてですが、桜小路さん個人やご家族からの支援もあるんですよね」
「はい」
桜小路先輩が答えた。
「ただし、今回の案では、部活動として必要なものと、わたくし個人や家から任意で補っているものを分けております」
「その支援がなくなった場合、香道部として成立しないということではありませんか」
「その前提にはしておりません。任意支援を、学校側が香道部へ認めている資源のように扱うこともいたしません」
高科が資料へ目を落とす。
「部として説明する部分と、個人的な支援を混ぜない、ということですね」
「はい」
「でも」
今度は天宮が口を開いた。
「その分け方をするなら、今後やる予定の一般向けの活動は、部活動の記録に入るんですよね?」
「ええ」
桜小路先輩が答える。
「香道部として実施するものですから」
「普段の活動と一緒にやるんですか?」
「いいえ。日時を分けます」
「じゃあ、普段から誰でも自由に入れるようにするわけではない?」
「その予定はありません」
天宮は資料を見直した。
「その方がいいと思います。ずっと開いているとなると、普段の活動がしにくくなりそうなので」
「わたくしたちも、同じように考えています」
「でも、初めてでも参加できるんですよね?」
「はい。香道について何も知らない方でも、入口に立てる形にいたします」
星野が以前言っていたことが、そのまま残っている。
「一ついいですか」
如月がペンを指先で回すのを止めた。
「どうぞ」
「一般向けにも開く。活動も記録する。そこまでは分かるんですけど」
一度、資料を見てから続ける。
「それなら、他の文化部でも似たこと言えません? 普段は部活してます、たまに部外の生徒も参加できます、だから専用の場所を残してくださいって」
言い方は軽い。でも、聞いていることは軽くない。
「香道部だけ認めるなら、他の部から見た時にどう説明するんだろうって」
桜小路先輩は急いで答えなかった。
「おっしゃる通りです」
その言葉に、如月が眉を上げた。
「わたくしたちも、一般向けの機会を設けるだけで専用の作法室を認めていただけるとは考えておりません」
「じゃあ、何を根拠に?」
「実際に香道部として活動を継続していること。その活動に、香材や道具を扱う環境が必要であること。そして、今後はその利用を第三者にも確認できる形で残すことです」
先輩の指が、資料の一箇所へ触れる。
「部外の生徒へ入口を作ることは、その上に加えるものです。学校の中に場所を持つ以上、部員だけに閉じた価値ではなく、外からも活動を確認できるようにする。そのための一つの方法として位置づけています」
「でも、それって結局、香道だから作法室が必要って話にはなりません?」
如月の問いに、桜小路先輩が答えるより先に、一条会長がこちらを見た。
「神崎くんは、どう考えますか」
俺に来ると思っていなかった。けれど、答えは昨日から変わっていない。
「香道部だから特別にしなくていいんじゃないですか」
如月が目を瞬く。高科もこっちを見た。
「説明してください」
一条会長が言う。
「別の部が、実際に活動してて、その場所を使う理由もあって、後から確認できる記録も残してるなら、同じように考えればいいと思います」
「同じ部屋を与える、という意味ですか」
「そこまでは言ってません。活動に必要な条件が違うなら、必要な場所も違うでしょうし」
一度、息を吐く。
「ただ、香道部だけ例外にしてほしいって話にはしなくていいと思います。こっちが出した条件を見て、それで残す理由になるか判断してもらえばいい。別の部が同じように説明できるなら、そっちもその条件で見ればいいんじゃないですか」
一条会長はすぐには返さなかった。資料へ視線を落とす。反応だけでは、それが好意的なのかどうかまでは分からない。
「同じ結果ではなく、同じように説明可能な条件で判断する、ということですね」
「はい」
「桜小路さんも、その認識ですか」
「はい」
桜小路先輩が頷く。
「わたくしたちがお願いしたいのは、香道部だけを特別に扱っていただくことではありません。この部が現在どのように活動し、この場所を何に使い、今後それをどう確認可能な状態にするのか。その内容をもとに判断していただくことです」
前は、問いが一つ増えるたびに答えが別のところで止まった。今日は、桜小路先輩が新しい約束を足すことなく、昨日までにまとめた資料から必要な部分を返している。
「一般向けの機会について、もう少し確認させてください」
天宮が言った。
「実際にやる時、部員の負担が増えすぎる可能性はありませんか? 準備も片付けもありますし、道具を触る人が増えるなら、普段より確認することも増えますよね」
「その点も、通常活動と分ける理由の一つです」
桜小路先輩が答える。
「常時受け入れる形にはせず、実施する範囲と日時を先に決めます。準備や片付けも特定の一人へ固定せず、その都度分担します」
「顧問の先生には?」
「安全上や手続き上、確認が必要なものは事前にお願いすることになっています」
「そこまで香道部だけで抱え込まない?」
「はい。教師側で確認すべきことまで、部員だけで決めるつもりはありません」
先輩の声は穏やかなままだった。
「では」
一条会長が桜小路先輩へ向き直った。
「通常活動と一般向けの活動が衝突した場合、最終的にどちらを優先するか判断するのは誰ですか」
「部長であるわたくしです」
迷いはなかった。
「ただし、わたくし一人の都合で決めるという意味ではありません。通常活動が成立しなくなる形では実施しないことは、すでに部内で共有しております。必要な役割は部員へ分け、学校側で確認が必要な部分は顧問へお願いする。その条件を守ったうえで、部長として判断いたします」
一条会長の呼吸が、一度だけ浅くなった。机に置いていた指先が紙の端を押さえる。
すぐに戻る。肌から立つ汗の匂いも、わずかに濃くなった。
質問の内容に反応したのか、桜小路先輩の声に反応したのかは分からない。
「分かりました」
一条会長はいつも通りの声で答えた。それ以上は追わず、資料へ視線を戻した。
「記録について、もう一つだけ」
高科が話を戻した。
「今後、一般向けの活動を実施したとして、それ自体が一回きりなら、改善した証拠にはなりませんよね」
「はい」
桜小路先輩が答える。
「ですから、実施したことそのものではなく、その後も通常活動を含めて記録を続けます」
「参加者が何人なら合格、という基準は決めていないんですか」
「決めておりません」
「回数についてもですか」
「同様です」
「それだと曖昧じゃないですか」
如月が入る。
「数字がないと、後で『ちゃんとやりました』って言われても判断しづらくないです?」
「逆に、今ここで回数だけを決めても、その数字を満たすことが目的になると思います」
俺が言うと、如月がこっちを見る。
「一回に十人呼べばいいとか、月に何回やればいいとか。そこだけ決めても、普段の活動が崩れてたら意味ないですよね」
「まあ、それはそうですけど」
「だから、やったことと、作法室をどう使ったかを残す。後から見た人が確認できるようにする。今決めてるのはそこまでです」
高科が資料の記録欄を指で追った。
「将来の活動を、もう実績があるものとして扱っているわけではないんですね」
「はい」
桜小路先輩が答える。
「これから行うことは、まだ実績ではありません」
そこで言葉を切った。
「ですから、実施した後に分かる形で残します」
天宮が頷く。如月はまだ資料を見ている。
一条会長も何も言わない。しばらく、紙をめくる音だけが続いた。
前なら、この沈黙を埋めるために何か足そうとしたかもしれない。今は、聞かれたことには答えた。その答えをどう判断するかは向こうの仕事だ。
「確認は以上でいいと思います」
高科が先に言った。
「僕からは、現時点では追加ありません」
「私も大丈夫です」
天宮が続く。如月も資料を閉じた。
「俺もです。気になるところは聞けたので」
一条会長は三人を見たあと、改めて桜小路先輩へ向き直った。
「前回は、香道部側が考える作法室の価値と、学校側が施設利用を判断するための材料が、十分に接続していませんでした」
「はい」
「今回の改善案では、少なくとも、現在の活動、今後の運用、記録方法、他団体との公平性を含め、こちらが判断するために必要な説明はできる状態になっています」
桜小路先輩は黙って聞いている。
「現時点で、香道部側へ追加の修正や資料作成を求める項目はありません」
一瞬、静かになった。
「今回提出された案を、正式な判断材料として扱います。ここから先は、こちらで必要な確認と手続きを進めます」
「ありがとうございます」
桜小路先輩が頭を下げた。一条会長は表情を変えない。
「ただし、これは作法室の継続利用を認めたという意味ではありません」
「承知しております」
「最終的な判断については、改めてお伝えします」
「お願いいたします」
桜小路先輩は結論を急かさず、資料をまとめて立ち上がった。残せるとも、駄目だとも言われていない。ただ、前のように修正点を持ち帰ることにはならなかった。
生徒会室を出て、廊下を少し歩く。角を曲がってから、桜小路先輩が足を緩めた。
「神崎くん」
「はい」
「ありがとうございました」
「俺、頼まれたところを補足しただけですけど」
「それで十分です」
先輩は抱えている資料を見た。
「あなたが確認してくださった部分ですもの」
「先輩」
「はい?」
「戻ったら、また資料作りますか」
桜小路先輩は一度、目を瞬いた。それから笑った。
「いいえ」
「そうですか」
「今日は、もう必要ありませんもの」
それならいい。作法室へ戻る頃には、窓から入る光がかなり傾いていた。
引き戸を開ける。中では、澄たちが俺たちの帰りだけを待って止まっていたわけじゃない。
片付けの途中だったらしい。星野が真っ先に顔を上げた。
「どうでした?」
「まだ決まってない」
俺が言うと、星野の顔が固まる。桜小路先輩がその先を引き取った。
「ですが、今回は持ち帰る修正点はありませんでした」
「え」
「提出した改善案を、正式な判断材料として扱っていただけるそうです。ここから先は、生徒会側で必要な確認と手続きを進めてくださいます」
「じゃあ……」
星野が途中で言葉を止める。
「通ったわけではないのよね」
柚木が確認した。
「ええ。まだです」
桜小路先輩はきちんと答えた。
「ただ、わたくしたちが今ここで新しく何かを足す必要もありません」
澄が俺を見る。
「今回は、ちゃんと渡せたんだ」
「ああ」
それくらいの言い方が一番近い。作法室が残るかどうかは、まだ分からない。でも、俺たちの中で作った答えは、今度は作り直さずに向こうへ渡せた。
「では、今日は片付けてしまいましょうか」
桜小路先輩が言う。それで、みんな元の作業へ戻った。
いつものように一日を終わらせる。少しして、開いた窓から風が入った。
初夏の夕方の空気が、作法室の中を抜けていく。結果はまだ出ていない。
でも、今度はもう、俺たちが答える時間じゃない。昼間より、少しだけ呼吸がしやすかった。




