第69話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 6
机の上に戻ってきた紙は、前より増えていた。俺が分けた過去の記録、澄の運用メモ、柚木のノート、星野が入部前と今を比べた紙。桜小路先輩の手元には、香道として外したくない条件がある。
ここ数日、それぞれが普段の生活の合間に確かめてきたものだ。ただし、どれも答えではない。
「まず、前の案を開きましょうか」
先輩が資料を中央へ置いた。
澄は茶を配り終え、星野は資料の横に宿題まで出している。柚木がそれを見て笑った。
「今日もやるんだ」
「宿題は毎日生まれるんですよ」
「名言っぽい」
作法室は、改善案を作るためだけの場所にはなっていない。俺は自分の紙を先輩の横へ寄せた。
「最初に、書けることと書けないことを分けます。記録で確認できること。今後やる予定。俺たちの記憶にしかないこと。推測で止まってること。全部同じ扱いにはできません」
「第三者が確認できるか、ですわね」
「そうです」
最初に引っかかったのは、この部屋で過ごしている時間だった。
「放課後、かなり使ってはいるよね」
柚木が室内を見回す。
「じゃあ、私がここで宿題してる時間も利用実績ですか?」
星野が聞いた。
「香道部の活動実績に入れたら怒られるだろ」
「ですよね」
澄が湯呑みを置く。
「でも、お茶を飲んだり休んだりする時間に意味がないわけじゃないよね」
「それは別」
俺にとって、ここは外の匂いから呼吸を戻せる場所でもある。だから価値がないとは思わない。
ただ、その価値を専用部室継続の実績へ水増しするのは違う。
「書かないことと、価値がないことは同じじゃないです」
先輩はすぐに頷いた。
「では、そこは分けましょう」
活動として書くのは、香道の稽古、香材や道具の準備と管理、作法室の環境を必要とする活動。それから、今後つくる外への入口。
「その入口なんだけど」
柚木がノートを開いた。
「『興味ある人は来てください』だけだと、たぶん来ない。何するのか分かんないし」
「私も入る前はそうでした」
星野も顔を上げる。
「香道を知らない人向けって分かる方がいいです」
「ただ、いつでも自由に入れる形は難しいかな」
澄が続けた。
「人の出入りが増えると、準備も片づけも道具の管理も変わるから。普段の活動と一緒にすると回らなくなると思う」
「香道を、人を集めるためだけの見世物にもしたくありません」
先輩の線もそこに加わる。事前知識がなくても参加でき、常時開放にはせず、通常活動と分けられる小規模な機会にする。ひとまず、そこまで書いた。
「具体的に何をするかは?」
柚木が聞く。
「今は決めなくていい。後の条件で変わるかもしれない」
「仮置きね」
「仮置きですわ」
先輩が赤いペンで囲んだ。次は、作法室を香道部が使い続ける理由だ。
「『伝統文化だから』だけで特別扱いしてもらうのも違うよね」
「それだけじゃ足りない」
継続して香道活動をしていること、香材や道具、環境に固有の条件があること、学校内へ価値を返す入口を作ること。そこへ、桜小路家や先輩個人の支援まで混ぜると話が濁る。
「先輩。個人で出してるものは、部として必要なものと分けた方がいいです」
「全部やめる、という意味ではありませんわよね?」
「そこまでは言ってません。ただ、それがないと成立しない案なら、先輩が卒業した後に困ります」
先輩は自分のメモを見たあと、一本線を足した。
「部として必要なものと、わたくしが任意で補うもの。説明上も分けます」
「その方が引き継ぎやすいと思う」
澄が言う。
「あと、一般向けの機会だけ派手でも駄目じゃない?」
柚木がさっきの紙を指した。
「一回イベントやって終わり、に見えたら普段の活動と繋がらないし」
仮置きした文に、また赤が入った。外へ開く機会は、作法室を正当化するための一発勝負じゃない。普段の活動が続いていて、その一部を学校へ返す入口にする。
前の案が、後から来た条件で普通に変わる。それでいい。
「記録も同じです」
俺は過去資料を抜いた。
「残ってるものは説明できます。でも『たぶんやってました』は外から確認できない。今後は、約束したことを実際にやったか分かる程度には残した方がいい」
「全部細かく?」
星野が聞いた。
「それだと記録するための部活になるよ」
澄が苦笑した。
「活動して、片づけて、そのあと毎回長く書くなら普段が削られるから」
必要なのは点数をつける材料じゃない。通常活動をしたこと、作法室を何に使ったか、一般向けの機会を実施したならその事実、今後の活動計画がどこまで進んだか。
「参加者何人なら成功、とかは?」
柚木が聞く。
「今決める根拠がない」
「出た。神崎の根拠がない」
「俺の決め台詞みたいに言うな」
星野が笑いながら、紙の端に文化祭と書いた。
「これは今後の予定に入ります?」
「ええ。ただし、文化祭までに何かを達成すればよいと決まったわけではありませんわ」
「じゃあ、普通に予定の一つですね」
その扱いで落ち着いた。気づけば、机の紙は赤だらけになっていた。
「最初より面倒になってない?」
柚木が言う。
「なってる」
「即答」
「条件が増えたからな」
「でも、前より分かります」
星野が言った。
「前は『一般の人にも来てもらいます』だけだったけど、今は知らなくても来られるとか、普段と分けるとか、何を気にしてるのか見えるので」
「私も動かしやすい」
澄が頷く。
「曖昧に『開く』だけだと、そのたびに準備する人が判断しないといけないから」
外から分かる形にしながら普段の活動は壊さず、外への入口も一度きりの実績作りにはしない。私的な支援へ依存せず、記録も活動を圧迫しない範囲にする。
条件は増えたが、その方が実際に使える案になる。
「一度、香道部として約束するところをまとめましょう」
先輩が机の中央へ新しい紙を置いた。さっきまで別々の資料に書かれていた内容が、そこへ少しずつ移っていく。
一つを書けば、別の紙から条件が返ってくる。外へ開けば普段の運用に無理が出て、記録を細かくしすぎれば新しい負担になる。
そのたびに先輩は文を戻して直した。誰か一人の案に合わせるのではなく、赤い線の間にそれぞれの条件を残していく。
「ここまでなら、先生に見てもらってよさそうですわね」
少し前に連絡していたらしく、しばらくして長谷川先生が作法室へ来た。
「お、増えたね」
机を見るなり、それが第一声だった。
「増えた上に、だいぶ赤いです」
柚木が答える。
「ちゃんと見直した跡ならいいんじゃない。で、わたしはどこを見ればいい?」
先輩が、完成しかけた案を先生へ向けた。
「中身はここまで決めました。ただ、ここから先は生徒だけで決めてよい範囲ではないと思いまして」
「うん。そこから先は、わたしが見る」
先生は数枚めくった。
「学校へ正式に出す手続きと、安全面の確認。実際に外の生徒を入れるなら、教員側で確認することも出てくる。生徒だけじゃ決められないところは、わたしが引き受ける」
「お願いします」
「逆に、中身までわたしが作り直す必要はなさそうだね」
「これなら通りますか?」
星野が聞く。
「それはわたしが決めることじゃない」
返事は早かった。
「気になるところは見る。でも、通すかどうかを決めるのは向こうだから。そこまではわたしには言えない」
先生が帰ったあと、先輩はすぐに紙を閉じなかった。
「最後に、もう一度だけ見てもよろしい?」
五人で最初から読み直した。
柚木が、外から読んで意味の分からない言葉を止める。星野が、初めて見る人には分かりにくい箇所へ印をつける。澄は準備と片づけの流れを見て、普段の活動を圧迫する部分を削った。
俺は、予定を実績みたいに書いている文を直す。先輩は最後まで、香道そのものがただの口実になっていないかを見ていた。
読み終える頃には、最初は別々だった紙の内容が、途中で切れずにつながっていた。どれか一つだけを抜けば、別の場所に無理が出る。
先生へ渡した部分も含めて、ようやく外へ出せる形になっている。
「……これなら」
先輩が最終ページを揃える。
「香道部の改善案として、わたくしから提出できます」
「完成?」
柚木が聞く。
「提出できる形には、ですわね」
「じゃあ今から行きます?」
星野が立ちかける。
「行かない」
「行きませんわ」
俺と先輩の声が重なった。星野が止まる。
「そこ揃うんですか?」
「もう帰る時間だから」
「書面も整えますし、長谷川先生側の確認もあります。正式に出すのは、その後です」
澄が笑って、空になった湯呑みを集め始めた。俺も資料を順番に重ねる。
茶を飲み、宿題をし、香道をし、必要なら面倒な紙とも向き合う。全部がこの場所で起きているが、全部を活動実績にする必要はない。
書かなくても大事なものと、外へ説明するために残すものを、今回の紙は前より分けられていた。
時計を見た先輩は、そこで新しい作業を始めようとはしなかった。前みたいに自分だけ残って続きを抱えることもない。俺たちと同じように使ったものを戻し、明日に回せるものは明日に回した。
これなら絶対に通る、とは思わない。でも、俺たちが何をしてきて、これから何をするのかは、外の人間にも読める。
片づけを終えた先輩が、完成した資料を鞄へ入れた。入ったのは、先輩一人の答えじゃなかった。




