第68話 雨上がりの旧校舎と、ひらかれる扉 5
放課後の作法室には、昨日と同じ紙が残っていた。正確には、同じではない。
生徒会で受けた指摘が書き込まれ、余白には俺たちが持ち帰った問題が増えている。机の中央に置かれたそれを、先輩はしばらく見ていた。
その横では、澄が水屋から茶を運び、星野は鞄から教科書とノートを出している。柚木は、教室から続いているらしい話を、星野とそのまま続けていた。
昨日、案が足りないと分かったからといって、今日の作法室まで別の場所になったわけじゃない。
「先に宿題やっていいですか? 今日ちょっと多くて」
「もちろんですわ」
「よかったあ……」
「昨日も同じこと言ってなかった?」
「昨日と今日は別の日です」
「強い」
そんな会話の横で、先輩は紙を一枚めくった。ペンはまだ持っていない。
「昨日の件ですけれど」
声が入ると、星野が開きかけた教科書から顔を上げた。
「まず、皆さんにお願いした内容をやり直す必要はないと思っています」
「え?」
「星野さんが出してくださった初心者の視点も、柚木さんが見てくださった外からの見え方も、真白さんが挙げてくださった通常活動との両立条件も、神崎くんが整理してくださった記録も、否定されたわけではありませんもの」
昨日も確認した話だ。先輩は紙の余白へ視線を落とす。
「足りなかったところを、もう少し外から分かる形にする必要がありますわね」
柚木が身を寄せた。
「じゃ、集め直すっていうより、足りないところを足す感じ?」
「ええ。そのために、何を確かめればよいかを分けましょう」
先輩はそこでペンを取った。紙の中央に線を引く。
「神崎くんには、今ある資料を見ていただけますか」
「何を見るんです?」
「既に確認できていることと、まだ予定や仮定でしかないこと。それから、追加で確かめる必要があるものを分けてください」
「分かりました」
俺が資料を引き寄せる。
「真白さんには、一般の方が来る機会を作る場合、普段の活動側で何を確認しなければならないかをお願いできますか?」
「うん。準備とか片づけとか、人の出入りとか、まずは確認するものを出せばいい?」
「ええ。まだ方法を決めるところまでは必要ありませんわ」
「分かった」
「柚木さんは、一般の生徒の方へ何かを聞く前に、何を確認すれば意味があるかを考えていただけます?」
「聞きに行くんじゃなくて、聞く内容を考えるところから?」
「はい。少数のご友人の意見だけを、学校全体の意見として扱うこともできませんから」
「あー、そこも考えないとなんだ」
柚木はすぐに自分のノートを開いた。
「星野さんは、香道を知らなかった時のご自分を思い出しながら、何を確かめる必要があるかをお願いできますか?」
「知らない人が何で困るか、みたいな?」
「それも含めて、ですわね。ただ、今ここで答えを決めなくて大丈夫です」
「はい」
星野が宿題用とは別のページを開く。
「先輩は?」
俺が聞くと、先輩は自分の手元へ視線を落とした。
「香道として外せない条件と、部長として判断しなければならないことを整理します。それから、最後に一つの案へ繋げるところも必要でしょう」
「了解です」
「では、始めましょうか」
その一言で、机の上がまたばらけた。俺は昨日までの記録を順番に見直す。
すでに実施している活動。今後やりたいだけのこと。条件が整えばできそうなこと。誰かへ確認しないと事実として書けないこと。
同じ紙に書いてあっても、外から見れば重さは違う。俺たちの中で分かっていることと、第三者が確認できることも同じじゃない。
線を引いていると、隣から澄の声がした。
「雅先輩。普段の準備って、どこまでを一回分として考えればいい?」
「そうですわね……」
先輩の視線が澄の紙へ向く。
「香炉や香材を出すところだけじゃなくて、終わった後に戻すところまで入れたいんだけど」
「それでしたら、通常活動で実際に行っている流れを基準にしてください。特別な日の想定を先に作るより、その方が抜けにくいでしょう」
「うん。じゃあ、今日は今やってる分を見ながら書くね」
澄はそのまま紙へ書き足していく。
しばらくして、今度は柚木が唸った。
「これ、むずかしいな」
「何が?」
俺が聞く。
「誰に何を聞けばいいか。香道に興味ある子だけに聞いても偏りそうだし、だからって適当にクラスで聞いて、『みんなこう言ってました』も違うじゃん?」
「そうですね」
先輩が答える。
「じゃあ、対象から決める?」
「いいえ。そこは急がなくていいと思います」
先輩は続けた。
「まず、何を聞けば役に立つのかを分けてみてください。聞く相手は、その後でも決められますから」
「なるほど。じゃ、質問の方からか」
「ええ」
「了解」
柚木がノートへ視線を戻す。昨日の今日だ。
足りなかったところが見えているなら、先輩が自分で埋めた方が早いことも多いはずだ。それでも、机の上ではそれぞれの紙がそれぞれの前に置かれていた。
「神崎先輩」
「ん?」
「これ、こっちですか?」
星野が俺に見せたのは、自分が入部前に知っていたことと、入ってから初めて知ったことを書き分けたメモだった。
「俺に聞いても、星野が何を知らなかったかは分からないぞ」
「そうじゃなくて。『香道って何する部活か分からなかった』は、確認することに入ります?」
「それを今、答えにしなければ入るんじゃないか」
「あ、そっか。これがみんな同じかは分かんないですもんね」
「そういうこと」
「じゃあ疑問のまま置いときます」
星野は素直に丸をつけた。答えが出ていない紙が増えていく。
途中で澄が茶を淹れ直し、星野は本当に宿題へ戻った。使った道具を戻す時間になれば、作業はそっちへ移る。
俺も一度資料から離れて、片づけを手伝った。戻ってくると、さっきまで別の場所にいた先輩が俺の席の横で足を止めた。
「神崎くん」
「はい」
「少し、よろしいですか?」
澄は水屋にいて、柚木と星野は同じ教科書を覗いている。先輩は机の上に散らばった紙を眺めた。
「昨日より、増えましたわね」
「何がです?」
「考えなければならないことが」
「ああ」
確かに、紙の枚数より疑問の方が増えている。
「これを全部まとめた時に、ちゃんと一つになるのかしら」
先輩の声は、普段より小さかった。
「ばらばらのままになるかもしれませんし。逆に、お願いした範囲が広すぎたのかもしれません」
俺は自分の資料を見る。確認済みより、まだ線を引けていないところの方が多い。
「今の段階だと、どっちもあり得ますね」
「やはり、そうですわよね」
「でも、今日分かることでもないでしょう」
先輩がこちらを見る。
「一回やってみないと、広すぎたかどうかも分からないですし」
「……そうですわね」
「それに、ばらばらだったら、その時に繋がらない理由を見るしかないんじゃないですか」
少し間があって、先輩が笑った。
「神崎くんは、こういう時は本当に淡々としていますわね」
「焦っても資料は増えないので」
「それもそうですわね」
先輩は自分の席へ戻っていった。俺も資料へ視線を落とす。さっきより何かが解決したわけではない。ただ、先輩の前にあった紙が増えたわけでもなかった。
気づけば、もう帰る時間に近づいていた。
「そろそろ終わりにいたしましょう」
先輩の声に、星野が時計を見る。
「え、もう?」
「宿題してた時間も入ってるからね」
「それ言わなくてよくないですか?」
「事実じゃん」
「でもちゃんとこっちもやりましたよ」
星野が自分のメモを守るように押さえる。
「分かっていますわ。続きは次で大丈夫です」
「これ、まだ途中ですけど」
「ええ。そのままで構いません」
柚木のノートには、疑問符がいくつも残っている。星野のページも半分ほどしか埋まっていない。澄が拾った確認事項も、まだ項目が並び始めただけだ。俺の資料にも「未確認」が増えた。
いつも通り湯呑みを下げ、使ったものを戻し、戸締まりを確認する。俺たちも一緒に片づけた。
「先輩、今日は残らないんですか?」
星野が何気なく聞いた。
「ええ。今日はここまでですわ」
「じゃ、一緒に帰れますね」
「そうですね」
それだけだった。作法室を出る前、俺は一度だけ机を見た。
終わっていないものが、いくつもある。先輩の鞄へ入ったのは、先輩が自分で考える分だけだった。
戸を閉める。続きは、次に集まった時でいいらしい。




