第9話 花冷えの午後と、残された気配 2
紙の上に答えがないなら、紙がここへ来るまでを見るしかない。そう考えながら、もう一度資料の束を持ち直した。
向きを変える。端を見る。何枚かをずらして、紙の間も確認する。
コーヒーの匂いは残っている。けれど、どの一枚かに液体が触れたと分かるような跡は、やっぱり見つからない。
「で?」
少し離れたところから柚木が覗き込んでいる。
「何か増えた?」
「増えてない」
「それはそれで困るやつじゃん」
「まあな」
紙から取れる情報が増えないなら、同じものを見続けても仕方がない。
匂いが付いたのがいつか。どこで付いたのか。誰が持っていた時なのか。
少なくとも、その辺りが分からないと先へ進めない。
「この資料、長谷川先生の前は誰が持ってたんだろ」
柚木が言った。
「それが分かれば少し絞れる」
「じゃ、聞けばよくない?」
あっさり返ってきた。
「誰に」
「まず先生でしょ。長谷川先生が誰から受け取ったか聞けば、その前も追えるじゃん」
言っていることは正しい。俺でも必要なら聞く。ただ、人を探して、声をかけて、事情を説明して、また次の相手を探す。
紙を見ている方がだいぶ楽だ。
「神崎、今ちょっと面倒だと思ったでしょ」
「思った」
「認めるんだ」
柚木が笑った。
「じゃ、あたし聞く」
「何で」
「何でって、気になるし。こういうの、人に聞いた方が早いじゃん」
俺に許可を取るような言い方ではなかった。自分で決めて、もう職員室の方へ身体を向けている。止める理由もない。
「じゃあ頼む」
「そこは素直なんだ」
「早い方がいい」
「はいはい。合理的で結構」
柚木が歩き出す。並ぶ時も、柚木は俺のすぐ横には来なかった。香水は分かるが、呼吸を浅くするほどではない。
職員室の前まで戻ると、ちょうど中から長谷川先生が出てきた。俺たちを見て、足を止める。
「神崎。忘れ物?」
「いえ。この資料、先生は誰から受け取りました?」
「資料?」
俺の手元を見て、それから少し考える。
「それなら、職員室で別の先生から。終礼が終わった後だったかな」
横から柚木が入った。
「先生、その人って今います?」
質問の仕方が自然だった。コーヒーをこぼした人間を探している、とは言わない。ただ、資料がどう回ってきたのか確認したいだけだと短く説明する。長谷川先生も特に怪しまず、職員室の中を一度見た。
「今はいないな。別件で出てるはず」
「その先生に渡した人は分かります?」
「そこまでは見てない。これ、何かあった?」
「コーヒーの匂いがするんです」
俺が答えると、長谷川先生が眉を上げた。
「わたし、こぼしてないぞ」
「まだ誰がこぼしたとも言ってません」
「ならよし。濡れてる?」
「跡はないです」
「じゃあ、余計に分からないな」
長谷川先生はそのまま何か思い出そうとしたが、すぐ首を振った。
「悪い。受け取った時刻も、時計まで見てたわけじゃない。終礼後ってことくらい」
「十分です」
答えたのは柚木だった。
「ありがとうございます」
「何か分かったら教えて。こっちは仕事戻るから」
それだけ言って、長谷川先生は職員室へ戻っていった。
俺なら、ここで次に誰へ聞くか考える。柚木は違った。
職員室の入口近くにいた先生へ声をかける。相手が資料のことを知らないと分かると、長引かせずに終える。次は別の先生へ。
「すみません、これって今日回ってた資料ですよね?」
いきなり核心へ行くわけでもない。相手が知っている範囲を見ながら、聞き方を変えている。数分もしないうちに、この資料をその前に扱っていた先生へ行き着いた。
その先生は俺の持つ束を見ると、すぐ頷いた。
「ああ、それ。放課後に回すやつだね」
「いつ頃、次の先生に渡しました?」
柚木が尋ねる。
「最後の授業が終わって、終礼が始まる前だったと思うけど。職員室に戻ってきたところで頼んだから」
「直接、長谷川先生に?」
「いや、別の先生に。長谷川先生まで回してもらうように」
受け渡しの間に、一人いる。
「その先生、今いない人?」
柚木が俺へ小声で聞いた。
「たぶんな」
聞いた名前は、さっき長谷川先生が示した相手と同じだった。本人は今ここにいない。
職員室から少し離れたところで、柚木が足を緩めた。
「時間、空いてるよね」
「ああ」
「渡したのは終礼前。長谷川先生が受け取ったのは終礼後。その間の人が今いない」
「そうなる」
柚木が俺の手元を見る。
「それ、関係ありそう?」
資料を持ち上げる。コーヒーの匂いはある。紙には、それに対応する液体の跡がない。そこへ、今分かった時間の空白を重ねる。
「可能性はある」
「どんな?」
「この紙にコーヒーが触れたんじゃなくて、途中でコーヒーの匂いが強い場所に置かれてたなら説明できるかもしれない」
柚木が一度瞬いた。
「……紙がコーヒー浴びたんじゃなくて、コーヒーの近くにいたってこと?」
「そういう可能性」
「あ、そっか」
納得しかけて、すぐこちらを見る。
「でも、それまだ分かんないんだよね」
「分からない」
「そこは変わんないんだ」
「場所が分からないからな」
匂いだけなら、最初からあった。足りなかったのは、その匂いが付くまでの経路だ。柚木が拾った時間の話で、ようやく別の説明を置ける場所ができた。
「……あたしが聞いたやつ、ちゃんと使うんだ」
「使えるから聞いたんだろ」
「いや、あたし勝手に聞いたんだけど」
「結果は同じ」
柚木が笑った。午前中みたいに俺の言葉の裏を探る感じではない。今の返事がおかしかったらしい。
「神崎って、そういうとこ変に普通だね」
「何が」
「役に立つなら役に立つで、そのまま使うとこ」
「使わない方がおかしいだろ」
「まあ、そうなんだけど」
柚木はそこで追及をやめた。代わりに、職員室の方を振り返る。
「じゃあ次、その間の先生に聞けばいい?」
「それが一番早い」
「どこにいたか分かれば、その近くにコーヒーがあったか見れるし」
「ああ」
本人が戻るのを待つか、どこへ行ったかだけ先に確かめるか。俺は資料を持ち直した。その横で、柚木も帰る方向には向かなかった。
空白になっているのは、一人分の受け渡し。次に埋めるのは、そこだった。




