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君の隠し事は、甘い匂いがした。――この距離じゃ、その嘘全部バレてるぞ。  作者: 来里 綴
春の匂いと、香水の鎧

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第8話 花冷えの午後と、残された気配 1

 教室を出て数分もしないうちに、俺の荷物は一つ増えた。


「神崎、今から作法室?」


 廊下の向こうから歩いてきた長谷川先生が、片手に持っていた紙束を上げる。


「はい」

「ちょうどよかった。これ、持ってってくれる?」


 差し出されたのは、学校で使うらしい紙資料の束だった。


「わたし、まだ仕事残ってるんだよね。先に置いといて」

「分かりました」


 行き先は同じだ。わざわざ断るほどの仕事でもない。資料を受け取ると、長谷川先生は「助かる」とだけ言って、来た方向へ戻っていった。


 俺もそのまま旧校舎の方へ向かう。数歩進んだところで、足が止まった。


 苦い。


 焦げた豆のような匂いが、手元から上がってくる。


 コーヒーだ。廊下にはまだ何人か生徒がいる。人の匂いはいくつもある。


 その中でも、今拾った匂いは明らかに近い。資料を持つ手を動かす。


 近づける。


 離す。


 やっぱり、ここだ。


「……こぼしたのか?」


 誰に言うでもなく呟いた。学校の紙資料にコーヒー。最初に浮かぶ説明としては、それで十分だった。


 誰かが飲んでいて、こぼした。乾いたあとも匂いだけが残った。ただ、本当に飲み物がかかっているなら、資料が傷んでいないかくらいは確認した方がいい。


 このまま作法室へ運んで、あとで問題が分かる方が余計に面倒だ。俺は廊下の端へ寄り、束の外側を見る。茶色い染みはない。


 紙の端も確認する。ない。めくれる範囲を軽くずらしてみても、色が変わった場所は見当たらなかった。


 それだけなら、もう乾いたとも考えられる。けれど紙自体も妙だった。液体を吸ったなら、乾いたあとに多少は波打ったり、繊維が歪んだりしてもよさそうなものだ。


 少なくとも、今見える範囲にはそれがない。普通の紙のまま。


 俺はもう一度、束を少し離した。コーヒーの匂いは消えない。


 なのに、それに対応する跡が見つからない。最初に考えた説明が怪しくなる。


「何してるの?」


 声に顔を上げる。少し離れたところに柚木がいた。鞄を肩に掛けたまま、こっちを見ている。


「紙見てる」

「それは見れば分かるけど」


 柚木が資料へ視線を落とす。


「先生からなんか頼まれた?」

「長谷川先生に、作法室まで持ってってくれって」

「で、なんで廊下で止まって紙チェックしてんの?」

「コーヒーの匂いがする」

「コーヒー?」


 柚木が少し首を傾げた。


「これから?」

「これから」

「じゃ、誰かこぼしたんじゃない?」

「最初は俺もそう思った」

「違うの?」

「分からない」


 午前にも似た返事をしたせいか、柚木の眉が少し上がった。俺は束の端を見せる。


「染みがない」

「……ほんとだ」

「波打ってもない」


 柚木は近づきかけて、途中で止まった。その位置から紙を覗く。香水の輪郭は届く。


「でも匂いはするんでしょ?」

「する」

「じゃあ、どういうこと?」

「それが分からない」


 柚木が一瞬黙った。


「……ああ」


 何かに納得したように短く言う。


「何」

「いや。神崎が午前に言ってたやつ、こういう感じなんだなって」

「何の話だ」

「分かることと、そこから何が分かるかは別、みたいなやつ」


 完全に同じ言い方をした覚えはないが、意味は近い。柚木は資料を指した。


「匂いがするのは分かる。でも、こぼしたかどうかは別ってこと?」

「そう」

「へえ」


 柚木は資料を見る。次に俺を見る。午前、俺の視線の向きを確かめていた時と似た目だった。


「神崎って、鼻で分かったら終わりじゃないんだ」

「終わったら楽なんだけどな」

「それはそう」


 小さく笑ってから、柚木はまた紙へ目を戻した。


「で、次どうすんの?」


 資料を持ち直す。なら、見る場所を変えるしかない。


「もう少し紙を見る」

「今も見てたじゃん」

「今のは、こぼれた跡があるか見ただけ」

「次は?」

「匂いがどこに残ってるか。それでも分からなければ、この資料がどこを通ってきたか」


 言ってから歩き出そうとすると、柚木は動かなかった。二歩進んだところで、後ろから声が来る。


「ねえ」


 振り返る。


「何」

「もうちょい見てていい?」

「別にいいけど」

「じゃ、見る」


 即答だった。


「帰らないのか」

「帰れるよ」


 柚木はそう言ってから、資料を指した。


「でも今の、ちょっと気になる」


 見たいなら見ればいい。俺としても、追い払う理由はなかった。俺は資料へ視線を戻す。


 コーヒーの匂いは残っている。こぼした跡は、ない。問題は、その二つがどうして同時に成立しているのか。


 答えはまだ、紙の上には書いていなかった。

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