第7話 春霞の旧校舎と、静かな逃げ道 4
目が合っても、柚木はすぐには逸らさなかった。
一秒、二秒。
さっきまでの軽い笑いが消えたわけじゃない。ただ、眉がわずかに寄っている。
何だ。
そう思ったところで、柚木が席を立った。水瀬が何か言いかけたが、「ちょっと待って」とだけ返して、こっちへ歩いてくる。俺の机の前までは来ない。
昨日確認した距離を覚えているらしく、少し離れたところで足を止めた。香水の輪郭は届くが、息を浅くするほどじゃない。
「……ねえ、神崎」
「何」
「さっきから何見てんの?」
怒っているというより、普通に感じが悪いと思っている顔だった。まあ、見ていたのは事実だ。
「さっきと今で、ちょっと違ったから」
柚木の眉がもう少し寄る。
「何が?」
俺はさっきの柚木を思い返した。二人の話に入った時は、返事も動きも速かった。終わって席へ戻ったあと、長く息を吐いた。それから水瀬に呼ばれた時。
「問題が片づいたあと、息が深くなった」
「……それだけ?」
「水瀬に呼ばれてから返事するまで、一拍あった」
柚木が黙る。珍しいことじゃない。一拍遅れて返事をする人間なんていくらでもいるし、ため息一つで何かが分かるなら世の中はもっと簡単だ。
ただ、直前までとの差としては残る。
「それ、匂いで分かったわけ?」
「匂いだけじゃない」
「だけじゃない?」
「呼吸も見えるし、反応が遅れたのも見れば分かる。匂いも、その前と違えば材料にはなる」
柚木の目が少し細くなった。
「……材料」
「それだけで答えにはならない」
そこで、さっきよりわずかに肩の力が抜けた。代わりに、今度は探るような目になる。
「じゃあさ」
「ん」
「あたしが無理してたって言いたいわけ?」
少し間を置いて、もう一つ重なる。
「本当はああいうの嫌だったとか」
「いや」
「即答?」
「そこまでは分からないから」
柚木が瞬いた。予想と違ったらしい。
「でも、疲れてたとは思ったんでしょ?」
「疲れたようには見えた」
「同じじゃない?」
「違うだろ」
疲れているように見えたことと、何が原因で疲れたかは別だ。俺は机の上の教科書へ一度目を落としてから、続けた。
「さっき、お前は自分から入っただろ」
「うん」
「二人の話を聞いてる間も、嫌そうには見えなかった。終わったあとも笑ってたし」
「……まあ、解決したし」
「だから、嫌なのに全部やってたって説明だと合わない」
柚木は何も言わなかった。教室の向こうで誰かが笑う。椅子が引かれて、机の横を二人ほど通り過ぎた。
その間も柚木はこっちを見ている。
「じゃあ何なの?」
「分からない」
今度は、答えるまで一秒もかからなかった。
「分からないから見てた」
「それ、堂々と言われると余計感じ悪くない?」
「そうか?」
「そうだよ」
昨日も似たようなことを言われた気がする。けれど、柚木の声からさっきまでの硬さは消えていた。
「……神崎の鼻ってさ」
「ん」
「そこまで分かるなら、もっと何でも分かるのかと思ってた」
「分からない」
「また即答」
「分からないものは分からない」
「少なくとも、さっき見た分だけじゃ理由までは決められない」
「何考えてたかも?」
「分からない」
「何か隠してるかも?」
「それも」
「……そっか」
柚木は考えるように黙った。
「てっきり、神崎の中ではもう『あたしってこういうやつ』って決まってんのかと思ってた」
「そこまで知らない」
「それも即答なんだ」
柚木が小さく息を吐く。今度のそれは、さっきの長い息よりずっと短かった。そこで考えるのをやめた。
「何」
「いや」
「今また何か見たでしょ」
「見てないとは言ってない」
「ほんっと感じ悪いね、神崎」
「前にも聞いた」
「そこ覚えてるんだ」
「言われたことくらいは」
柚木の口元が緩んだ。大きくはない。
水瀬や小坂と話している時みたいに場を広げる笑いでもなく、ただ今の返事がおかしかったから出たような笑いだった。
「……やっぱ変なやつ」
「何が」
「そこまで細かいとこ見てるくせに、肝心なとこは普通に『分かんない』って言うとこ」
「分からないのに分かったって言う方が変だろ」
「理屈はそうなんだけどさ」
柚木はそこで一度、俺の顔を見直した。
「玲奈ー、次始まるよ」
水瀬の声が飛んできた。
柚木が振り返る。
「分かってるー」
返してから、もう一度こちらを見る。
「じゃ、神崎」
「ん」
「次から見るなら、もうちょい普通に見て」
「普通って何だ」
「それは自分で考えて?」
「難題だな」
「そこまで難しくないから」
言い残して、柚木は水瀬たちの方へ戻っていった。香水の輪郭も遠ざかる。俺も次の教科書を開いた。
すぐに授業が始まり、柚木も俺も前を向いた。疲れた理由は分からないままだが、今のところ困らない。教師が黒板へ文字を書いている途中、視界の端で何かが動いた。
柚木だった。こっちを見ている、というより。俺の目線がどこへ向いているのかを確かめるように、一度だけこちらを見ていた。
視線は一度こちらをなぞっただけで、すぐ黒板へ戻った。今度は向こうが、俺を見ていた。
何なんだ。理由までは、やっぱり分からなかった。




